16 初めての客
「おやつ持ってきたよー」 仕事が終わってくつろいでいたリンは、今日のおやつであるらしい林檎を持ってきた千尋に呼びかけられて「おー」と気怠い返事を返した。 「やだなぁそんなに疲れたの? 変な声」 「ってよぉ、千は湯殿の掃除だけで良かっただろうけどよ、オレはあちこち走り回されてもうクタクタなんだよ……」 そういえば、今日のリンはあちこちばたばたと走り回っていたような気がする。 (……昨日、ハクと大喧嘩してたのと関係あるのかなぁ……) そんな千尋の考えを見抜いたのかリンは嫌そうな顔で溜息をついた。 「絶対、あいつのせいだ。ったく……こんな嫌がらせをしてくるなんて、ケツの穴の小せぇ奴!」 「リンさんたら……」 リンの口の悪さは今に始まったことではないが、ハクに対しての悪口はこうも出てくるか、と思うほどにぽんぽん出てくる。 うら若き乙女である千尋が顔を赤らめるような言葉も平気で吐くのだからたまったものではない。 「ま、まぁまぁ……林檎でも食べて機嫌治してよ、ね?」 リンは林檎を受け取り、軽く表面を服で擦ってからそのままかぶりついた。 隣に座り、それを横目に見ながら同じように千尋もかぶりつく。 ちょうど食べ頃だよ、と手渡してくれた厨房のカエルが言った通り、林檎は甘くて美味しかった。 「そういえばさ」 「ん?」 林檎もあらかた芯だけになった処で、千尋はふと思いついてリンの方へと視線を向けた。 「リンさんの初めての客って、どういうお客だったの?」 千尋の初めての客はオクサレ様だった。 色々あったがうまく接待する事が出来て、(その後のカオナシの件で散々な酷評を頂いてしまったが)あれで千尋は仕事に自信を持つことが出来たのだ。 自分よりも先輩であるリンにも当然初めての客はあるはずだ。 「初めての客ぅ? ……何かその言い方、卑猥だな」 「余計な事言わずにっ! どんなお客だったか覚えてるの?」 「んー」 暫し宙を見据えて考えて――――それからリンは千尋に向き直った。 「覚えてねぇなぁ」 「全然? まったく??」 「ん、全く」 多分ふっつーの客だったんだよ、お前の客がインパクトありすぎたんじゃねぇの? 等というリンの言葉にも千尋は不満そうな表情を隠せない。 「リンさんが全然覚えてないのはつまんないなぁ……それじゃハクに聞いてくるっ」 「はぁ? え? あ、ちょっと待てっ……」 リンが声をあげた時には既に千尋の姿は廊下を曲がるところで。 リンの声は届かなかった。 「………知らねぇぞ、今日帰れなくっても」 そう呟いて、リンはぽりぽりとほほをかいた。 その頃ハクは遅い夕食(普通の人間でいえば夜食にあたる時間である)を部屋でとっていた。 今まで残務処理に追われて何も口に出来てなかったため、ひどくおなかがすいている感覚がある。 「ハク―――――!!」 「!!」 半分くらい食べた、という処でそんな声とともに部屋をしきっている襖が開けられた。 あまりの勢いに驚いて一瞬食べたものを詰まらせて咽せてしまう。 「きゃ、だ、大丈夫っハク!? ごめん、御飯食べてたの気が付かなかったの!」 「大丈夫……」 何とか落ち着いて、ようやくハクは千尋に向き直る事が出来た。 「……どうしたんだい、そんなに慌てて。私に何か聞きたい事でも?」 「そうなの!」 手をぽんと叩いて、千尋はにっこりと笑みを浮かべた。 「あのね、さっきリンさんと話してたんだけど」 リン、という名を聞いて一瞬ハクの眉間に皺が寄る。 (……仲が良すぎるのも考えものだな……) だが千尋に「リンと仲良くするな」と言うと返って反抗されてしまう(当然、経験済みである)ので、それは言わず心に留めておくだけにしておいた。 ―――次の日のリンの仕事の量が増えるのはこれで決まったようなものだ。 「……って、リンさん覚えてもないのよっ。そんなもんなのかしらね?」 ハクの意識が内に向いているのにも気が付かず、千尋は喋り続けている。 「でね、ハクは初めてのお客さんって覚えてる?」 「は?」 自分でも驚くほどの素っ頓狂な声が出た。 「は? って……ハクだって最初っからこんな立場じゃなかったでしょ? 最初は下っ端から下積みして今の地位になったんだろうし、最初に受け持ったお客さんてのがいるでしょ」 (………千尋……主語が抜けているぞ……それではどう聞いても遊女の客という言い方にしか聞こえないんだが……) 微妙な思いをしているハクに比べ、自分が言っている意味など全く頓着しない千尋は目をまんまるにしてハクを見つめている。 「ねってば」 答えを促され、ハクは渋々口を開いた。 「私は最初からこういう立場にいたから……千尋のような下積みはしてないんだよ」 「ええええっ!?」 そんなに驚かれることだろうか? と今度はハクの方が驚きで目を丸くしてしまった。 「私は龍だし……他の従業員には出来ない事が色々出来たからね。だからだよ」 「そうだったのか……初耳だぁ…」 しきりと感心しているらしい千尋を見ているうちに、ハクのなかには何となく「面白くない」という感情がわき上がってきていた。 (まったく……リンともこんな会話をしているのか?) リンに嫉妬するのはお門違いだとは分かっているのだが、日頃滅多に一緒にいられない分どうしても腹が立つ。 だから。 「……ところで、千尋」 「ん、何?」 「こんな時間にわざわざ私の処に来たということは、当然帰れなくなることは承知の上、ということだね?」 その途端、千尋の顔がかああっと真っ赤に染まった。 「えっ、あの、その」 「明日は少し遅く起きても構わないからね」 ハクの手が千尋の肩をそっと掴む。 「ち、ちょっと、そういう問題じゃなくって………きゃ〜〜!!!」 千尋がわたわたとしているうちに顔が近づいて来て――――― ――――フェードアウト。 結局その日、千尋は女部屋には帰って来なかった。 「ったく、何度も同じ目に遭ってるってのに……いい加減懲りればいいのによ」 リンがそんな事を呟きながら眠りについたことを、千尋は知らない。 END |
07/05/04 |