夢の回廊
ハクセン祭投稿作品
「千、悪いけど買い物行ってきてくれる?」 湯女の1人にそう声をかけられた千尋はえっ、と動きを止めた。。 まだ客が起き出す時間ではないがもうそろそろ夕暮れがやってきて本格的に始まろうかという微妙な時間。 千尋も割り当てられた持ち場で働いていたところで、こんな時に外への買い物を頼まれる事は滅多にない。 「今……ですか?」 訝しげに思いながらそう訊ねると、湯女は苦笑を浮かべた。 「あたしがついているお客様が今でないとって言われててね。父役の許可はとってあるからさ」 どうしようと思いながら一緒に働いているリンに視線を向ける。 リンは肩をすくめてみせた。 「客がそう言ってんだったら仕方ねぇよな。後はオレがやっとくから千は行ってきな」 リンにそう言われてちょっとホッとした―――上役と客の命令は絶対、とはいってもやはり持ち場の事は気になるのだ。 「うん……じゃお願いね」 ブラシをおいて湯女の処まで行くと湯女は懐から一枚の紙切れを出した。 「欲しいものはここに書いてあるから。何処の店に行ったらいいか分かる?」 ざっと目を走らせる―――書いてあるものは千尋も良く知っているブラシとかそういう類のものばかりで、湯屋に来てすぐの頃ならいざ知らず何年も働いている今なら大体分かる。 「分かる……と思います」 もし迷ったら店の人(?)に聞けば良いだろう。 千尋が湯屋で働いている唯一の人間である事は湯屋にいる者ならば誰でも知っている事だし、彼女がハクと坊のお気に入りである事も皆周知の事実であるので、人間だからといって危害を加える者はいなかった。 「じゃ頼むね。あたしは硫黄の湯にいるからさ」 「はい」 湯女が去っていくのを見送り、千尋は紙切れを懐へと入れた。 夕暮れ時の町に出るのは久しぶりだ。 ハクと出会ったのもちょうど夕暮れ時―――その時は「夕暮れ」が一体何を示すのか全く分からなかった。 真実の名を取り戻した今となっては千尋にとって夕暮れは何の意味もなさない。 ―――はずだった。 目指す店は階段を下った先にある。 とんとんと軽やかに階段を下りていた千尋は、ふと気配を感じて立ち止まり後ろを振り返った。 「………?」 まだお客が歩き出すには少し早い。 だから人影はないはずだった。 だが千尋の視線にちらり、と映ったものがあった―――黒い人影が物陰に隠れるのが一瞬見えた。 (……なに?) そのままじっと見つめても人影は見えない。 (気のせいかな……?) そう思いながら前を向いて再び階段を下りていく。 耳をすましながら歩くと、自分以外の気配が確かに感じられた。 「……!」 くるっと振り返るとさっと隠れる人影が確かに目に入ってきた。 さきほどと同じ、黒い人影。 (何……何なの?) たまにちょっかいを出して来る精霊がいない事もないのだが、それは友達とじゃれる時のような軽いもので、ここまで不安を煽るものではなかった。 しばし立ち尽くしていた千尋だったが、辺りがだんだんと暗くなってきているのに気がついてかぶりを振った。 「……こうしてても仕方ないよね……」 ともかく仕事を済ませなければならない。 幾ら外出の許可が出ていても帰るのが遅くなれば嫌みを言われることは必須だ。 この階段を下りきって道なりに曲がれば目的の店があるはず―――。 そう思いながら階段を下りきり、道に沿って曲がる。 「……え」 道の向こうにあるはずの店は無く、なだらかな坂道が続いていた。 坂の両脇には店が並んでいるものの、まだ客が来る時間ではないと思っているのか扉は固く閉じられている。 「記憶……違い、かな……」 自分以外に人影はない。 不安からか千尋は考えている事を声に出しつつ辺りを見回した。 振り返れば今下りてきた階段が見える。 「道を間違えた……?」 だが何故かその階段を登ろうという気にはなれなかった。 とすれば眼前にある道を進むしかない。 ごくりと息を呑み、千尋は意を決して足を踏み出した。 明らかにおかしい。 恐らく感覚的にもう1時間くらいは歩いているはずだ。 湯屋があるこの場所はそんなに広くはない―――多少次元がゆがんでいて広く感じる事はあるが。 「おねえさまから「ちょっと買ってきて」と頼まれて行くお店がこんなに遠い訳ない……っ!」 もしかしたら、という淡い期待を抱いて歩き続けていた千尋だったが、いくら不思議な事が多く起こるこの場所だとしても明らかにおかしい事態である事を認めざるを得なくなっていた。 「一度戻って、もう一度道をたどってみよう……」 それで駄目なら湯屋に戻ってお客様に謝るしかない。 そう思ってきびすを返し、元来た道を歩き始めた千尋であったが。 「……何で、景色が変わらないの……?」 歩いても歩いても景色が変わらない。 いや、ちゃんと自分が歩けば景色は流れていくのだが、いつまでたっても同じ景色ばかりが見えてくるのだ。 まるで迷路に迷い込んだかのように。 そう考えてぞくっと背筋に寒気が走った。 もちろん迷い込んできた人間を"町"が疎ましく思って迷い込ませる可能性がない訳ではない。 だが千尋は湯婆婆と契約を交わしたれっきとした従業員であり、この世界に存在する事を許された者。 "理"に従う以上この世界に存在出来る者を町が迷わせるはずがないのだ―――が。 「どうして……? 私、何かしたっけ……」 "理"を破るような事をしでかしたかと考えてみるも特に思い当たる節はない。 万が一千尋がそんな行動をしそうになれば、ハクが止めてくれるはず。 「そう……ハクに助けを……」 気が動転してしまっていたが、念をこめればきっとハクが気がついてくれる。 千尋は邪魔にならないように道の脇にしゃがみ込み、手を祈りの形に組み合わせた。 「―――ハク……気がついて…」 どれくらいそうしていただろう。 くらり、と目眩を感じて千尋は額をおさえた。 「なんだろ……」 貧血かとも思ったがすぐに違う事に気がついた。 「眠い……の? 私……」 意識に霞がかかり始めている。 自然な、だが明らかに強制的な何かを感じる眠りがひたひたと忍び寄ってきている。 「何で、こんな時に……」 ここで眠ったら―――多分、二度と目覚めない。そんな気がする。 そうは思うものの、痛みならまだ我慢もしようがあるが、睡魔に抗うのはなかなか難しい。 (眠っちゃ駄目だ…) 口に出して言ったつもりが、僅かに唇が動いただけで言葉にはならない。 そのまま千尋は古びた壁にもたれかかってしまった。 (ハクを、呼ばなきゃ―――) 霞がかった意識のなかで千尋が最後に考えたのはそんな言葉だった。 湯屋から千尋の気配が消えた事に気づき、帳簿の整理をしていたハクは立ち上がった。 (仕事が始まる時間だというのに湯屋から出る等あり得ないことだが……) 湯屋の従業員や常連客ならば千尋がこの湯屋にいる事はごく当たり前となっているが、一歩外に出ればそれを良く思わないものもやはり存在する。 しかしそれを千尋に伝えて必要以上に怖がらせるのも……と思い、敢えて彼女には伝えてはいなかった。 部屋を出て千尋が働いているであろう場所へと歩いていく。 仕事の時間に現場へと出向く事のないハクが厳しい顔をして歩いていくのを見かけた従業員たちが何事かとその後ろ姿を見送る。 だが誰も「どうしたのですか」と声をかける事は出来なかった。 「んだよ、オレぁ忙しいんだよ」 風呂釜の掃除をしていたリンが不機嫌そうな顔を向けた。 「千がいない間はオレ1人なんだからな。邪魔すんなよ」 いつも共に働いているはずの千尋の姿はない。 「千は何処へ行ったのだ」 その場を立ち去る様子のないハクに、リンはブラシをがん、と床に音をたてて立てた。 「あんな……オレぁ忙しいって言ってんだろ」 「千は何処へ行った」 全く話を聞いていない。 リンははぁとため息をついた。 「客の1人がどーっっしても必要なモンがあって買ってきてくれって言ってるらしくてよ、それを買いに外へ出たぜ」 その言葉を聞いたとたん、ハクはきびすを返して歩き出した。 「おいっ!」 礼の一つもなしかよ! というリンの言葉はハクに届いていない。 そのまま歩き去ってしまったハクを見送り、リンはもう一度大きなため息をついたのだった。 湯屋の外に出た途端、ハクはあるはずのない「歪み」を感じ取って足を止めた。 「……空間の歪み……」 ここまで大きい術を使っていれば湯婆婆が気がつかないはずがない。 それを敢えて放っているのはあわよくば……を考えているためか。 (ともかくは千尋を助け出すのが先だ) ハクは歪みが感じられる方へと走り出した。 店が並ぶ大通り。 その大通りからほんの少し階段を下りた処―――そこが「歪み」の発生している場所。 見ただけでは分からないが、この先に千尋が閉じ込められている。 (―――私よりも格下の者の術で良かった) もしも格上であれば銭婆の力を借りなければならない処だった。 すっと空間に向けて手をかざす。 ぱりん……と耳障りな音が聞こえ、目の前の景色にひびが入った。 更に念を送るとひびは大きくなり、空間に穴が開く―――その向こうに、もう一つ景色が見えた。 何処までも広がる、無限の階段が。 「空間を無限に繋げただけか……」 ハクにとっては低級な術であっても魔法の力を持たない千尋にとっては、これが術である事を見破る事すら難しいだろう。 穴をくぐって造られた空間へと足を踏み入れる。 その途端、遠くで悲鳴のような―――そんな声とも気配ともつかないものを感じ、ハクは空を見上げた。 「―――悪戯にしては度が過ぎたようだな」 ハクのそんな言葉に応える事なく、気配が薄れていく。 最後に感じた気配から察するに、恐らく人間界に存在する妖精か精霊かがこの世界に唯一存在する千尋を見つけて悪戯を仕掛けた――というところか。 湯屋に良く来る者ならばこの娘に手を出す事が自殺行為である事を知っている。 空間が閉じつつある事を確認しながら歩みを進めていくと。 「―――千尋」 薄汚れた壁にもたれている千尋の姿を見つける事が出来た。 「千尋」 名を呼びながら近づいていく―――が。 (目を覚まさない……?) 傍らにひざまづき、彼女の体に触れても千尋が目を覚ます様子はない。 そっと額に触れると、微かに魔力の痕跡を感じた。 「…………」 (空間を閉じただけでなく、「意識」を閉じたか) 意識が奥深くに沈み込んでしまっている―――このままでは千尋は絶対に目を覚まさないだろう。 ハクは千尋の体を抱き上げた。 意識を引き上げるにしても、こんな道端でするよりは湯屋の部屋のなかで術を行使した方が効きも良い。 (―――単に消し去るだけでなく八つ裂きにしておけば良かった) そんな物騒な事を思いつつ、ハクは湯屋の方へと歩き出したのだった。 「千が目覚めないって本当かっっ!!」 早速聞こえて来た大声にハクは眉をひそめた。 「……これから術の行使です。詠唱を間違えたら大変ですからお静かに」 嫌みったらしく告げた言葉に入って来た相手―――坊は案の定カチンと来たらしく、うなり声をあげた。 ハクの部屋に敷かれた布団の上で千尋はすーすーと寝息をたてている。 うなされる様子もなくごく普通に眠っている様子からは、目覚めない眠りについているとは思えない。 「大丈夫なのかよ……」 心配になって様子を見に来たリンをちらりと見やり、ハクは頷きを返した。 「この術をかけた精霊は高い位の術者ではないらしい。解くのはそう難しい事ではない………が」 たっぷりと間をとった後に「が」という言葉をつけられ、リンの表情が険しくなる。 「……何だよ、「が」って」 ハクはリンから千尋へと視線を戻した。 「―――恐らく千尋は閉ざされた意識の内で夢を見ているはず。……もしもその夢が彼女にとって「居心地が良い処」で「帰りたくない」と思ったら……彼女を目覚めさせるのは困難になる」 「そんな事、あるはずない!」 坊の声が妙に大きく響いて聞こえ、リンが驚いたように肩を揺らす。 「千は、絶対こっちの世界がいいって言うに決まってる!!」 ハクもそう思っている―――そう信じたかった。 だが。 ―――夢は時に現実よりも美しく景色を見せる。 理想や願望を色濃く映し出す事もある。 そういう世界に永遠に浸っていられるならばその方が良いと考えてしまう事も、あり得るのではないか? 絶対に違う、とハクには言い切れなかった。 ゆっくりと意識が下りていく。 他人の意識のなかに入り込むことにためらいを感じた事はない。 だが彼女が自分をどう思っているのか、という事が見えるのは、何となく恐い気がした。 (あれは……) 目の前に景色が見えてくる。 青い色と―――赤い色が混在する、派手な色合いの景色。 何処かで見た事があると思っていたハクは、その景色が鮮明になるにつれてその景色が何であるのかを理解して声を漏らした。 「……湯屋、か……」 目の前に広がる景色は湯屋の景色。 彼女は湯屋の夢を見ているのだ。 夢とはいえども彼女の意識のなかでは現実と大して変わりない。 地面に降り立ち特に異常ない事を確認してからハクは湯屋へと向かって歩き出した。 まずは夢のなかの千尋と会わなければならない。 (会って説得して……彼女が納得すれば意識も戻るはずだ) 見たところまだ昼間の湯屋であるようだから、皆眠りについている時間帯だろう―――夢のなかは甚だ不安定な処であるから、現実の通りに動く事はないだろうが。 そんな事を思いながら橋を渡ろうとしたハクは、向こうから歩いてくる人影に気がついて柱に身を隠した。 (あれは……!) 向こうから歩いてくる人影は子供。 黒髪を切りそろえ、白い水干に身を包んだ少年の姿だ。 (子供の姿をした―――私…?) 間違えようもない。 子供の姿をしたハクは、柱の影にいるハクには気がつくことなく歩いていく。 その後ろ姿を見送り、ハクは改めて湯屋を見上げた。 「ここは―――過去の記憶、か……?」 千尋が見ている夢は、過去の記憶。彼女が湯屋にやって来た頃の記憶だ。 (一体どんな夢を見ているのだろう) 目の前にそびえ立つ湯屋は、ハクの記憶のなかと寸分違わぬ姿を保っていた。 皆寝静まっている時間帯らしく、湯屋は静まりかえっている。 ハクは湯屋の下層へと向かって歩いていた。 (きっと千尋はあそこにいる) そんな確信があった。 小さな潜り戸をそっと開ける。 「……えっ?」 そこには大きな釜と、沢山の薬草が収められた棚があって。 本当ならばそこにいるはずの主―――釜爺の姿はない。 そして。 「……あなた、誰…?」 今は懐かしい幼い子供の姿をした千尋が、ススワタリ達と驚いた様子でハクを見つめていた。 (記憶も子供の頃に戻っているのか) 幼い子供の記憶が前に出ているのならば、「彼女」が知るハクの姿も子供の姿。 今の大人の姿をしたハクは見知らぬ者でしかない。 だが忘れてしまった訳ではない―――思い出せないだけで。 だからハクは微笑みを浮かべてじっと千尋を見つめた。 「こんな処にいたのか、千尋」 「私の名前、知ってるの……?」 不思議そうな表情をしている千尋は、今も昔も変わらない。 「知っている。今のそなたも、本来あるべき姿のそなたも」 「あるべき姿……?」 「そう」 ゆっくりと怖がらせないように歩みよる。 最初は警戒しているそぶりを見せていた千尋だったが、ハクが近づいても逃げようとはしなかった。 ―――いつの間にか、千尋の傍にいたはずのススワタリの姿が消えていた。 「そなたの本当の姿を―――存在すべき時も、私は知っている」 「…………」 「……思い出して、千尋……」 夢のなかで果たして言霊が何処まで効くか―――。 それなりの時を生きているハクではあったが、こういうケースは初めてで自信はなかった。 (思い出したとて彼女が「戻りたい」と思わなければ意味がない) 戻りたいと思っているかどうかは―――幾らハクでも分からない。 だから、これは賭に近かった。 もし彼女が拒絶すれば、夢は迷路になる。 「……ハク…?」 おそるおそる……といった様子で訊ねて来た千尋に、ハクは頷いてみせた。 「そうだよ。千尋ももう子供じゃない……大人になりつつあるんだ」 「そう……そうだよ、ね。私、湯屋に来てもう随分経つんだよね……」 千尋の姿が、子供から少しずつ成長していく。 今のハクが良く知る姿へ―――10代の少女の姿に戻っていく。 それにつれて千尋の記憶も蘇ってきているようだった。 「帰らなきゃ……私、仕事の途中だったよね……?」 「そうだね。早く戻らなければ皆が心配する」 千尋に向けて手をさしのべる。 「うん」 その手に千尋の手が重なった。 ―――ぱっちりと目が開いた。 「千!!」 見下ろしてくる坊やリンの顔を、千尋は目をぱちぱちと忙しなく瞬きさせながら見つめた。 「気分悪くないか? 大丈夫か?」 矢継ぎ早に問いかけられても良く分からない。 「え……えっと?」 (私、今までボイラー室にいたんじゃ……?) 「夢を見ていたんだよ」 やわらかな声に誘われるように視線を向けると。 たった今傍にいたはずのハクが、やわらかな笑みを浮かべて千尋を見つめていた。 「夢……?」 「そう、夢」 そっか、夢か……と納得し、千尋は改めてどんな夢を見ていたのかを思いだそうと意識を奥へ集中させた。 「……あれ?」 「どうしたんだよ」 素っ頓狂な声をあげた千尋に、リンが心配そうに声をかける。 「……どんな夢見てたのかな〜って改めて考えたら……思い出せないの」 「夢だからな……目覚めた途端に忘れちまったんだろ」 「でも……」 さっきまで覚えていたのに。 ―――とても優しくて、懐かしい想いだけが胸のあたりに残っている。 ハクに視線を向けるが、彼は何も言わずただ微笑みを浮かべているだけだった。 術にかかった事はそれなりに千尋の体に負担をかけていたらしく、暫く話をした後千尋は「もうちょっと寝る」と言って再び眠ってしまった。 今度のは魔力の片鱗は感じられない普通の眠り。 体力が回復すれば自然に目覚めるだろう。 邪魔しないようにと部屋の外へ出たハク、坊、リンの3人だったが。 「とりあえず千が無事なら良しとするわ。オレは部屋に戻るぜ」 「千が起きたらまた来るから」 リンと坊はそう言って自分の部屋へと戻っていった。 後にはハクが残されるばかり。 ハクには気になっている事があった。 (―――どうして千尋は子供の頃の湯屋を夢見たのだろう) それがハクには不思議だった。 確かにあの出来事があったからこそハクと千尋は再会出来たのだが、どちらかといえば楽しい事よりも辛い事の方が多く残ったはずのあの頃を、どうして夢に見るのか。 辛すぎて記憶に強く残ったのかとも思ったが、その割には夢のなかの空気はとてもやわらかくて、千尋のなかでは「幸せな記憶」として残っている事は容易に想像出来る。 「幸せな記憶として……覚えているのか」 自分や、湯屋の住人、この世界と出会えた事を―――幸せな記憶として。 それは今を幸せと感じているという証拠にもなる。 「幸せ……か」 長い時を生きるハクにとって「幸せ」とはあまりピンと来ないニュアンスの言葉だったが、今なら理解出来る。 千尋の記憶のなかで感じたあの感覚が幸せという想い。 それは自分も千尋に対して感じている感覚だった。 END |
素材:NOION