あの夏を忘れない
2004年度センチヒ夏祭り参加作品
私があの湯屋に行ったのは夏。 とても暑い夏だったけど、今まで住んでいた都会よりも風が涼しい、と思ったことを覚えている。 ハクがこちらの世界に来たのは夏。 いきなり私の前に姿を現し、私はひどく驚いた。 そうしていくつもの夏がすぎて、私は高校生になった。 「ここにいたのか、千尋」 背後から話しかけられて、私は振り返らずに頷いた。 誰が話しかけて来たのかは見なくても分かるし、ここに特別の思い入れがあるのは彼も同様だから。 「うん…」 彼は私の隣へとやってきて、同じようにその方向を見つめた。 私たちの視線の向こうにはトンネルがある。 苔生し、荒れ果てたトンネルが。 あの世界にいたのはほんの数日だったのに。 今はあの場所がとても懐かしい。 「…みんな、元気かな」 「気になるかい?」 ハクの問いかけに私は頷きを返した。 「あそこは私が生まれ変わった場所だから。辛い思いもしたけど、でもそれをひっくるめて私はあの場所が好き。あそこにいる人たちが好きなの」 あそこは私にとって故郷のようなものになりつつある。 二度と帰れない故郷。 ―――とすれば、この思いは望郷というものなのかしら? 「行くことは難しいけど見ることは出来るよ」 そう言われて私は思わず「え?」と聞き返していた。 思わぬことを聞かされて、頭がうまく理解出来てない。 「見るって……」 自分の声が掠れていることにも私は驚きを覚えていた。 私、どうしてそこまで驚いてるんだろう。 もしかしたら―――あの人たちの姿を見ることが出来るかもしれない。 そのことが私、こんなにも嬉しいんだろうか? 「おいで」 そんな私の様子に笑みを浮かべ、ハクは手招きをして歩き出した。 ハクによって連れてこられたのは小さい池だった。 ほとんど人が入らないところだからか、水が透き通って底まで見える。 「一体なにをするの?」 湯屋の様子を見せてくれるって、まさかこの水面を覗いてたら見えてきたりするんだろうか? 「水鏡だよ。遠くの景色を映し出す―――まぁ呪術の一種だね」 驚いた―――ハクって何でも出来るって思ってたけど、こんなことまで出来るんだ。 お話のなかの魔法使いなんか目じゃないくらいに、凄い力を持ってるんだ。 「驚いた?」 苦笑しているハクに私はこくこくと頷いてみせた。 「うん、だって凄いじゃない? 遠くの景色が見えちゃうんでしょ……まるでテレビ電話みたい」 テレビ電話は相手が機械をもってないと駄目だから、それ以上かも。 「本当はこういう流れる水ではやらないんだけどね。でも千尋の思いが強いから出来ると思う」 そうハクは言って、水面に手をかざした。 空や木々が映っていたはずの水面が、徐々に別の色を映し始める。 まず最初に見えて来た色は。 「……赤、だ…」 湯屋の柱や梁の色。 懐かしい、色が見えて来た。 やがてそびえ立つ湯屋の姿が水面に映った。 「……全然変わってない…」 私はもう10歳の時の姿じゃないのに、ここはこんなにも変わらない。 薄れかけていた記憶がよみがえってきて、私はいつの間にか滲んできていた涙を慌てて拭いた。 「湯屋の中を見てみようか」 ハクがなにやら手をかざすと、赤い色が薄れ代わりに別の景色が見えてきた。 「………あ、れ? あれは……」 思わずハクの腕を掴んで水面をのぞき込む。 「リンさん!」 リンさんがブラシや桶を持って廊下を大股で歩いていくのが映し出されていた。 周りにいる従業員たちから声をかけられてめんどくさそうにしつつも律儀に手をあげて返事を返す。 声は聞こえなかったからなにを話しているのかは分からないけど、でも元気そうなのは分かった。 「リンさん、元気そう……」 「父役や兄役も相変わらずのようだ」 リンさんが歩いていった廊下の向こうで父役や兄役が忙しそうに―――ちょっと横柄なところもあの頃のままで、従業員たちに指示を出しているのが見えた。 「相変わらず繁盛してるのかな、湯屋は」 湯屋が繁盛するということは、それだけ人間界が精霊や神々にとって住み難い場所になったということだから、素直に喜べないのだけど。 「上がこうということは、きっと釜爺のところはてんてこ舞いだろうね」 ハクの言葉に反応してか、景色がボイラー室のものに変わった。 釜爺が忙しそうに働いている傍らでススワタリたちが一生懸命炭を運んでいる。 私が訪れた時と全く変わらない景色がそこにあった。 作業が滞りがちなんだろう、時々釜爺がススワタリたちに怒鳴っている。 そういえばあの時も釜爺、怒鳴ってたな……。 そこまで見て、私はほぉ…とため息をついた。 「千尋?」 「あ…うん」 今まで見てきて、私はずっと感じてることがあった。 「みんな変わってないね。やっぱり変わったのは私だけか……」 皆の姿は別れたあの時から全く変わっていない。 もちろん彼らが出会った時にはもう大人だったってこともあるんだろうけど―――彼らが人間ではない、別の時間を生きている者たちだってことが一番の原因だろう。 ハクも私と同じくらいの年の姿を保っているけど、ハクの場合は自分の望む姿をとることが出来るらしいので、今とっている姿が正しい訳じゃない。 ―――私だけが変わってしまった。 何となく覚悟はしてたけど―――こうして改めて確認すると、かなり寂しい。 「いや……そうでもないと思うよ」 ハクが手を振って景色を変える。 「―――!?」 そこは湯婆婆の部屋だった。 相変わらずの豪勢な部屋のその中央に、湯婆婆と共に佇んでいる一人の男の子がいた。 「……あの子…」 顔に面影が残ってる。 あの子は―――――。 「坊だよ。前は湯婆婆が甘やかしていたせいでずっと赤ん坊の姿だったけど、千尋と出会ってから変わったんだ」 坊の精神が大人になるにつれて体も成長をはじめ、ハクが湯屋を出る頃には3、4歳の子供に成長していたのだという。 今の坊は10歳くらいに見えるから―――それだけ坊が成長してきてるってことだ。 「千尋が成長するように皆も変わって来ている。ただそれが目に見えづらいだけで……」 「うん……そうだね」 坊がこんなに変わってきてるんだもの、皆だって変わらずにはいられない筈だ。 私の表情が和らいだことでハクは安心したようで、笑みを浮かべた。 「これでいいかい、千尋」 「あ――待って。まだ見ていない人がいる」 そう、気になっていた人は後二人。 「銭婆とカオナシは、どうしてるのか……見ることは出来る?」 私の問いにハクは頷いて手を振った。 銭婆の家には今でも変わらず穏やかな空気が流れているようだった。 カオナシが夕食の用意をして、銭婆がそれを横目で見ながら編み物をしている。 カオナシが銭婆の元に残ったのは彼にとって良かったようだ。 「……幸せそうで良かった」 向こうの世界で皆それぞれに幸せに暮らしてる。 「会えないのは辛いけど―――こうしてみんなの姿が見られたから、嬉しい」 私の言葉にハクは優しげな笑みを返してくれた。 これから先は千尋は知らないこと。 私は千尋を先に行かせて―――水鏡の呪文を解こうと手をかざした。 「………銭婆」 水鏡に映った銭婆が私の方を見つめていた。 私の術に気が付いたのだろう。 ゆっくりと銭婆の口が言葉を形作る。 ――――ち ひ ろ と し あ わ せ に な り な さ い。 「―――ありがとう、銭婆」 届くはずのない言葉を呟いて、私はそっと術を解いた。 後はただ私の顔が水面に映るのみ―――――。 「ハク―――! 早く早くー!」 千尋が道の向こうで手を振っている。 「今いくよ」 私はもう一度水面を見つめてから――――千尋の方へと向かって歩き出した。 END |
こっとっと屋管理人O次郎様が企画されたセンチヒ夏祭り参加作品でございます。思い出を振り返る……と言うことから色々と想像の翼を広げてみましたが、ちょっと失速気味になってしまいました。分かりづらくて申し訳ないですが、最初は千尋視点、ラストはハク視点になっています。三人称で書けば良かったのですが、千尋の一人称で書いた方がしっくり来たので……。小さい作品ではありますが、楽しんで頂ければ幸いです。 |