White landscape
「寒い……」 千尋は水仕事ですっかり冷たくなった指先にはぁ〜、と息を吹きかけた。 「今日はえらく冷え込むな」 リンが桶を持ってやってきて、千尋の手を覗き込んだ。 「真っ赤になってんな」 「しもやけになったらどうしよう……あれ、かゆくなるから嫌なんだよね…」 「これから湯殿の掃除に移るから、そしたらあったかくなるさ」 「ん、そうだね」 ブラシを担ぎ、歩き出したリンの後ろをついていく。 ふ、と窓の外に視線を向けて、千尋はあ、と声をあげた。 「雪が降ってる……」 暗い窓の外に、ちらほらと降る白いもの。 雪が舞い降りて来ていた。 「あん?」 リンが視線を向けて「あーあ」と声を上げた。 「道理で寒い筈だぜ……これだと客の入りも少ないかもな」 「こんなに寒いと、湯屋に来るまでが大変だよね」 そんな事を話しながら、千尋とリンは割り当てられた湯殿へと向かった。 仕事が終わったのは夜更け過ぎ。 客も皆部屋へと帰り、後かたづけも終わってようやく千尋はふぅ、と息をついた。 「これで終わりっと」 リンは別の場所で片づけをしているから、先に部屋へと帰っていていいからと言われた。 (とりあえずは部屋に戻って、それから就寝までの時間何をして過ごすかを決めよっと) 湯殿から出て廊下へと足を踏み出す。 「つめたっ!!」 あまりの冷たさに飛び上がってしまう。 「ど、どういうこと……?」 おそるおそる、足の指で廊下をつん、と触ってみる。 ―――木で出来ている廊下は、まるで氷のような冷たさだった。 ここを裸足で歩くのは相当な勇気がいる。 「な、何か冷気を放ってない……? これ……」 湯殿のタイルは先ほどまでの湯の温かさのせいでまだほんのりと温かみを保っている。 そこにしゃがみ込んで、千尋は廊下を手で触ってみた。 「……これ、氷……?」 試しに指の関節で叩いてみると、まるで氷を叩いた時のような固いコンコンという音がした。 「千尋」 しゃがみ込んで床をじーっと見つめていた千尋の頭上から、声が降ってくる。 この湯屋で彼女の事を「千尋」と呼ぶのはたった一人しかいない。 「ハク?」 上を見ると予想通り、ハクの姿があった。 思わず視線を下の方へとやる―――と。 「はい、このままじゃ廊下を歩けないだろうと思ってね」 やはりハクにとっても廊下があまりにも冷たすぎるのだろう、草鞋を履いているのが見えた。 千尋の目の前にも草鞋が差し出される。 「ないよりはましだろう?」 「有り難う。どうやって部屋まで帰ろうかって悩んでたところなの」 有り難く草鞋を受け取り履いてから再び廊下へと足を踏み出す。 直接床に足が触れないせいか、冷たいのは冷たいが我慢出来ないほどではない。 「今日は雪女たちが湯屋にやって来てるせいで、この辺り一帯が豪雪に見舞われてるんだよ」 「……だからこの湯屋のなかも完全に冷え切ってるのね……」 ハクがふと外の方へと顔を向け「こっちにおいで」と手招きしながら歩いていく。 その後をついていくと、ハクは庭へと通じる扉をぎぃ…と押し開けた。 「……うわ…」 庭が真っ白に染まっている。 空からはまだ雪が降り続いている。 この様子だと明日起きる頃にはもっとつもっているに違いない。 「明日は雪かきも仕事に加わりそうだ」 ハクの口調がうんざりした色を帯びているのに気がついて、千尋はぷっと吹き出した。 「千尋?」 「ううん……ハクも仕事で「やだなぁ」って思う事があるんだなって思って」 「まぁ……楽しい仕事ばかりではないのは確かだね」 確かに雪かきはかなりの重労働だろう―――テレビで豪雪地帯の暮らし、なんていう番組を見たことがあるが、とても大変そうだった。 「時間があったら私も手伝うから、ね」 だがハクはやわらかく微笑んで首を横に振った。 「気持ちだけは受け取っておくよ。慣れない人がやると筋肉痛になるどころか、怪我をする事だってあるんだからね」 足を骨折でもしようものなら、遊べなくなるよ? ハクにそう脅されて千尋は慌てて首を横に振った。 「わ、分かった。やめます!」 「さ、早く休みなさい。夜が更ければ更ける程冷え込んで来るから」 「はーい。お休み、ハク」 「お休み」 ぱたぱたと廊下を走っていく千尋を見送って、ハクはもう一度外に視線を向けた。 まだ雪は降り続いている。 救いは風がない為吹雪にはならないだろうことくらいか。 「………湯屋のなかで凍死者が出なければいいんだが」 そんな物騒な事を呟いて、ハクはそっと扉を閉めた。 次の日の朝。 「……さむっ…」 千尋は目覚めて意識を取り戻した途端、寒さに身を震わせた。 布団のなかにいても寒い。 目を開けて身を起こす。 まだお姉様たちは眠っているようだが、ぶるぶる震えている者もいる。 震えながらもまだ寝ようという根性が素晴らしい。 水干を着て外の廊下へと続く障子をそうっと開ける―――。 「……ここ、湯屋だよね……?」 そう思う程に目の前の世界は一変していた。 雨が降れば海になる筈の処は完全に凍り付いて雪原のようになっている。 まだ雪は降り続いていて、ここから見える豚舎は完全に雪で埋もれてしまっていた。 「雪女さんたちの力って凄いんだ……」 ここまでの雪景色は初めて見る。 千尋はなんだか嬉しくなって、外に出てみようと階段の方へと向かった。 裏口からは前に駅へと向かった時に使った船着き場へとすぐに着く。 だが今はそこも完全に凍り付いて、地面のようになっていた。 申し訳程度ではあるがマフラーと手袋をはめ、靴を履いた千尋はそおっと足でつんつんと氷をつついた。 とんとん、とコンクリートのような音がする。 これだけ固ければ千尋が乗っても大丈夫だろう。 そうっと足を乗せ、体重をかける――――。 氷は何の音もたてず、千尋の体重を支えてくれた。 「すごい! 氷の上を歩けるなんて」 靴の裏がゴムの為か思ったよりも滑らずに歩ける。 「スケート靴持ってくれば良かったなぁ。そうしたら滑れたのに」 てくてく歩いて多分駅だったろう処の近くまで歩いていく。 下を覗き込むと、氷の下に線路が見えた。 「これじゃ電車も通れないね」 海が出来た時にはそれを物ともせずに走っていた海原電鉄だったが、線路の上に氷が出来てしまっては運休決定だろう。 千尋は視線をまた遠くの方へと向けた。 「………………」 本来なら水平線であろう彼方が、今は地平線に変わっている。 何処までも続く氷の平原に千尋は言葉も出なかった。 「……あ」 どんよりと立ちこめていた雲が僅かに途切れ、そこから陽の光が差し込んできた。 途端に辺りがぱあっと明るくなり、氷が光に反射してきらきらと輝き始める。 「綺麗……」 なんて幻想的なんだろう。 こんな景色を見られる人間は私だけ。 そう思うとこの景色がとても大切に思えて仕方なかった。 「千尋」 背後から声がしてはっと振り返る。 「湯屋から出る気配がしたからどうしたのかと思ったよ」 ハクが立っていた―――千尋が何処に行くのかと心配したようだが、今は彼女の姿を見つけて安堵しているらしく、表情がやわらかい。 「海が凍ってるのが見えたから近くで見たいなって思って、見に来たの」 「なるほど……海が凍るのは滅多にない事だからね」 「ハクもこういう光景は初めて?」 「湯屋で見るのは初めてだね。元々湯屋はそこまで寒くなる事がないから」 「ハクも初めてなんだぁ……」 そう聞くと嬉しくなってくる。 千尋はハクの手をとった。 「え? 千尋?」 「向こうの方まで行ってみよ? 何処まで凍ってるのか知りたいし!」 そのままずんずん歩き出す千尋に引っ張られるようにハクも歩き出す。 「雪女たちの力が届く範囲までは凍ってるだろうけど、それ以上先になると氷が溶けてきている筈だよ?」 無駄だろうと思いながらもそう声をかけてみるが。 「だからそれが知りたいんだって!」 ―――やはりダメだったか。 まぁ一人で突っ走られるよりはましだろう。 そう思いつつハクは大人しく千尋について歩いていったのだった。 油屋の屋根が水平線の彼方に消えたあたりまで歩いて。 千尋は足の下でみしっという音がしたのに気がついて足を止めた。 「この辺りが限界のようだね」 ハクが千尋の腕を引っ張って止める。 千尋の足元の氷に、ひび割れが起こっていた。 肌を刺すような寒さが和らいで、暖かくなってきている。 「結構遠くまで雪女さんたちの力が届いてるのね……」 「そりゃ一人で一地域を豪雪にしてしまうくらいの力を持っている。そんな雪女たちが団体で集まってるんだからね。湯婆婆の力で随分と緩和されている方だ」 「うわぁ……」 湯屋で凍死者が出ないのが不思議なくらいだ。 「さぁ、戻ろう」 ハクに促され、千尋はきびすを返した。 みしみし、と嫌な音がする。 「氷が溶けかけてる……」 「湯婆婆の力が強まって来ているな。客から苦情が来たのかもしれない」 「今氷が溶けたらまずいよね……」 そう言った途端、千尋の足元がばきっと割れた。 「きゃ!!」 足が沈みかけた瞬間、ハクが千尋の腰に腕を回して引っ張り上げる。 「あ、有り難うハク……」 随分と氷がゆるくなってきている。 今立っている場所も溶けかけていて、ひび割れが起こり始めている。 「千尋、私に捕まって」 「え?」 ハクの姿が竜へと変化する。 その途端竜の体積に耐えられず氷が次々と割れていき、千尋は慌ててハク竜の背にしがみついた。 「わわわっ」 そのまま飛び上がるハク竜に捕まっていた千尋は、衝撃が止んだ事でそぅっと目を開けた。 「す、ご―――い……!」 眼下に広がる氷の野原。 それが少しずつ割れて水へと戻っていく。 「南極だったか、何処かの雪解けをテレビで見たことがあるの。その時も凄いなって思ったんだけど……自分の目で見る方が全然迫力あって、凄いね……!」 興奮して身を乗り出した千尋を、ハク竜が心配そうに振り返った。 「ご、ごめんごめん。おっこちないように気をつけるから……」 自然と視線は眼下の方へと吸い寄せられる。 「―――きれい……」 千尋はほう、と溜息をついた。 「―――という訳だったの! もう、凄かったんだから……!!」 と、ゼスチャーをくわえながら臨場感たっぷりに報告をする千尋を、リンはぼ〜〜っと眺めていた。 「……リンさん、聞いてる?」 「聞ーてるよ……聞ーてるけどな……」 その途端、へっくしょん! とリンは大きなくしゃみをした。 「……やっぱ、風邪…?」 「うう……そうみてぇだ……」 鼻は止まらないし咳は出るし頭はぼーっとするし。 とはいえど仕事を休む訳にもいかず、リンは死にそうな顔で壁にもたれかかっていた。 「今日私一人でやるから、リンさんは寝てて?」 「そうはいかねぇよ……たかだか熱が出た程度で休んでたら、豚にされちまう……」 「でも風邪のひき始めが一番肝心なんだよ? いいから、休んで」 ぐいぐいと千尋がリンの背中を押す。 それに抗えないほど、リンはぐったりしていた。 「……んじゃ……今日はお言葉に甘えさせて貰うわ……あったま痛い……」 「うん。後であったかいもの持ってったげるからね」 よろよろと歩いていくリンを見送って、千尋はぐいと腕まくりした。 ―――見れば、周りのお姉様たちも皆具合が悪そうだ。 リンが一番重症らしいが、鼻をすすっている者や空咳をする者はあちこちにいる。 やはり夜半から朝方にかけて異常に冷え込んだのが原因のようだった。 「もしかして、元気なのって私だけ……?」 ―――何とかは風邪をひかない、なんていう言葉が頭をよぎる。 が、それは気がつかないふりをして、仕事場へと向かう千尋であった。 END |
雪を連想させる曲をずっと聴きながら書いていた作品です。文章で風景とかそういうのをうまく描けないかと思い色々悩みつつ書いてみましたが……私、基本的な事を忘れておりました。……私耽美表現苦手だったんだ……(とほほ)。という訳で、とても美しい景色を描いているにもかかわらず全然伝わらず皆様の想像力にお任せするしかないという情けない状況に(涙)。一応頑張って書いてみたバージョンもありますが、すんごくとってつけた状態にしか見えなかったので没。ううう、難しいですね、風景を文章で描くっていうのは……。 |