緋色の野望・血色の闇
その1
「ソフィー!!!」 ハウルの悲鳴のような声が聞こえてきて、そのまま行くつもりだったソフィーはつい足を止めてしまった。 足を止めたソフィーの背後。 ソフィーから少し遅れるようにして、ハウルが姿を現した。 その姿は痛々しいという表現が一番しっくり来るようなひどい状態。 上半身は胸も腹部も腕も白い包帯で覆われており、まだふさがりきっていない傷が開いて新たな血がにじみ出していた。 それどころか包帯で吸収しきれなくなった血がぽたぽたと落ちて、ハウルの足下に血だまりを作る。 「ソフィー…!」 近づこうとハウルが動くたびに傷が開き、血が流れる。 「傷が塞がってないのに動いちゃダメよ……戻って、ハウル」 「…いやだ……いやだ!」 城の廊下の端と端、その距離は僅か3、4メートルほどのもの。 ソフィーの忠告を無視してハウルはどんどん近づいて来る―――それから逃れようと、ソフィーは後ずさった。 未だ癒えない右肩に残る傷が痛む。 だがそれ以上に心が苦しかった。 ―――しっかりしなさい、ソフィー! 何のために取引をしたって言うの!? そう自分自身を鼓舞し、口を開く。 「ハウルは早く怪我を治すことだけを考えて。あたしのことは大丈夫だから」 「ソフィー、君のせいじゃない……っ…」 ハウルは傷が痛むのか熱があがって来たのか、壁にもたれかかって何度も浅い息をついている。 普通ならまだ動けるような状態ではないのに。 ソフィーはぎゅっと胸を押さえた。 左手にはハウルがはめてくれた指輪の感触がある。 (今ハウルが負っている怪我はすべてあたしのせい。これくらいはしなきゃ、責任はとれない) 「……あたしだって時間稼ぎくらいは出来るもの。心配しなくっていいから!」 半ば自棄になったように叫ぶと、ソフィーはそのまま身を翻し走り出した。 「ソフィー! 行っちゃだめだ、ソフィー! ……くっ」 激痛で体が硬直して思考がうまくまとまらない。 カルシファーが体内にいた頃はここまで酷い痛みを感じることはなかった。 でも。 ―――僕はもう逃げないと誓ったんだ……! 気が遠くなりそうになるのを何とかこらえ、手をかざす。 「……いか…せない…」 残っている気力をかき集め、魔力を高めていく――――。 「ハウルさん、だめです!!」 マルクルがハウルの足にしがみついてきた。 痛みが走り、集中がとぎれて発動しかけていた魔法が消えてしまう。 もう、ソフィーの姿は何処にも見えない。 もうすぐこの城から気配も消えてしまうだろう。 そう思った瞬間、ハウルは本気で震え上がった。 「はなせ…はなすんだ、マルクル……!」 「そんな体で魔法を使ったら死んじゃいます!」 「かまうもんか…!!」 「だめです!! 怪我をなおしさえすれば、いくらでも手はありますよ!!」 怪我を治せば。 それにいったいどのくらい時間がかかるのだろう。 その間、ソフィーの身に何が起こっているか分かったものではない。 ―――と。 「……!! ソフィー!!」 ハウルは絶望的な表情で宙を見据えた。 城からソフィーの気配が消えた。 もう、いない。 ―――彼女を、失ってしまった。 目の前が真っ暗になっていく。 ハウルはまるで糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。 「ハウルさん!!」 マルクルの声も、今のハウルには届かなかった。 時間はさかのぼる。 ハウルとソフィー、マルクル、ヒン、荒地の魔女のなれの果てであるおばあさんの5人は幸せに暮らしていた。 もちろん全く何事もなかった訳ではないが、戦争が終わったためか魔法使いハウルの力を利用しようとする輩はぱったりと来なくなった。 ソフィーは戦火から復興させたあの店で花を売り、ハウルは気ままに店を手伝ったりまじないをしたりして金を稼ぐ。 彼らはとても幸せだった。 「ただいま〜」 「お帰りっソフィー!」 買い物に出かけていたソフィーをマルクルが出迎える。 「わぁ、凄いたくさん買ったんだね。今日はごちそうだぁ!」 ソフィーのかごの中を見てマルクルが嬉しそうな声をあげた。 「僕、この前作ってくれたじゃがいものスープがいいな! すっごく美味しかったよ!!」 「そう? じゃ一品はマルクルの好きなそれね。後もう一品は……・」 「目玉焼きがいい」 上から声が振って来て、ソフィーははっと顔をあげた。 「おかえり、ソフィー」 ハウルがにこにこと微笑んで立っている。 「ただいま。……目玉焼きでいいの? もっと凝った料理も出来るわよ?」 「目玉焼きがいい。ソフィーが作ったものが食べたいんだ」 甘えた様子でそう言われると断れない。 「いいわよ。これから作るからおとなしく待っていてね」 かごを置き、台所へと向かってコンロの前に立つ。 「カルシファー、カルシファー。夕御飯を作るから来てちょうだい」 「おっけ〜〜」 そんな声が聞こえたかと思うと、光玉が飛んできてぱっとソフィーの前のコンロが燃え上がった。 炎のなかにカルシファーの顔が浮かび上がる。 「いつもありがとうね、カルシファー。本当にあなたがいてくれて助かるわ」 「いやいや、それほどでも」 カルシファーはおだての言葉に弱い―――もちろん言っていることは本音だが、ちょっとばかり大げさに言うとカルシファーは機嫌良く仕事をしてくれる。 この頃では元の主人であるハウルよりもソフィーのほうがカルシファーの扱いがうまいほどだ。 今日も勢いよく立ち上るカルシファーの上にフライパンをおいて、ソフィーは鼻歌を歌いながら料理をしていた。 「―――そういえば」 「ん?」 ソフィーはあることを思い出して声を潜めてカルシファーに話しかけた。 「街で変な噂を聞いたのよ」 「変な噂?」 「ええ…」 あまり他の人には知られたくない内容なので更に声を潜める。 「赤の魔法使いっていうのがこの頃出歩いてるんだって」 「……なんだそりゃ?」 「くわしいことは分からないんだけど、人をさらっては頭っから食べてるとかいう噂もあったり、若い娘の生き血をすするっていうのも聞いたし」 はじめは真剣な顔で話を聞いていたカルシファーだったが、段々と興味なさそうな顔つきになってきた。 「それじゃただの化け物じゃんか。魔法使いって言ったって普通の人間なんだし、人を食べたっておいしくないに決まってるだろうに。悪魔が心臓や目をえぐるっていうほうがまだ信憑性があるやい」 「あくまでも噂だから、尾ひれ背びれがつきまくってるんだろうと思うんだけど」 「……にしてもひっでぇ噂だな」 「ハウルだって若い娘の心臓を食べるっていう噂が広まってたんだから、ね」 「僕がどうかしたって?」 ソフィーが慌てて振り向くと、ハウルが立っていた。 「何の話?」 不思議そうに首を傾げているハウルを、ソフィーとカルシファーはひとしきり見つめて―――それから笑い出した。 「な、何で笑うんだよ!!」 「ううん、何でもないのよ。もう少ししたら出来るから、ハウルは机の上を片づけてちょうだい」 「気になるなぁ……」 ブツブツ言いつつもハウルはおとなしくリビングのほうへと戻っていく。 それを見計らってカルシファーが声を潜めた。 「でも注意した方がいいぜ、ソフィー」 「え?」 「その、赤の魔法使いの噂。なんかヤな予感がする」 ハウルとの契約が終わってカルシファーは元の凄まじい力を取り戻した。 その彼が予感めいたものを感じているのだ、用心しなくてはなるまい。 「うん、気をつけるわ」 その言葉をソフィーは後で死ぬほど悔やむことになる。 |