そして誰もいなくなった
その11









千尋の血で赤く染まったたったひと文字が光を放つ。

―――と同時に、あれ程強く輝いていた部屋中を満たす文字の光が薄まりだした。




―――おのれ……!! おのれ……血印を施しおったか………!!





そんな声が聞こえて来て、千尋はびくっと身をすくめた。

―――ふっ、と目の前が暗くなる。

「千尋!」

倒れそうになる千尋をハクが抱き留めた。

封印が完成しようとしている―――それを感じてハクは千尋をぎゅと抱きしめ、ある一点を見据えた。



――――おのれ……!




光が弱まっていく。

ハクの視線の向こうに、黒い人影のようなものが見えた。

ほぼ封印が完成したというのに、あの湯婆婆に宿っていたものが、それに抗おうとしているのだ。

――――何故、邪魔をする……ようやく、自由を手にしたのに……何故…!!

憎しみのこもった声が響く。

その人影がゆっくりと手を伸ばしてくるのが見えた―――まるで、道連れにしようとするかのように。

「往生際の悪い……」

ハクがすっと指で印を切った。

――――お前も……本当はこうなるべき、存在であった……ものを……

「―――消え去れ」

その途端、その黒い影がぱっと四散して床や壁に吸い込まれていく。





―――辺りは、静寂と闇に包まれた。















ふと気がつけば、千尋は自分の手も見えない程の真っ暗闇のなかにいた。

(―――これ…抱き上げられてるのかな? 歩いてるような振動が伝わってくる……)

「……ハク…?」

「気がついた?」

上の方からハクの声が聞こえて来て、千尋はほっと息をついた。

「もうすぐ湯婆婆の部屋に出る。そうしたら暫く休むといい―――疲れたろう?」

そう言われて、千尋は素直にうんと頷いた。

「頭がくらくらするの……熱でもあるのかなぁ…」

暗闇のなかでハクが笑みを漏らすのが分かった。

「銭婆の術が切れかかっているんだよ。まだ血が足りていない状態なのだからね」

「そっか……」

ハクの声に先ほどまでの緊張がなく、穏やかな声になっている。

(―――元の生活に、戻れるんだ……)

そう思った途端、疲れがどっと出てきたような気がした。

「―――ハク……」

歩く時に伝わってくる振動が心地良い。

「なに?」

「……何か、眠い……」

「……眠っていいよ。後の事は私がやっておくから―――千尋はお眠り」

「うん……有り難う…」

千尋はハクに完全に身を預け、大きく息を吐いた。

(―――凄く、眠い……)

きっと今までの疲れも出たんだろうな―――そういえば、テストで殆ど寝ていない上にリンさんの事が心配でやっぱり眠れなくて。

その後にこんな事が起こって――――

そこまで考えた処で、千尋の意識はぷっつりと途切れた。
















すーすーと穏やかな寝息をたてている千尋を自分の部屋へと連れて来て、布団の上に横たえる。

―――湯屋のあちこちからざわざわとざわめきが聞こえてくる。

どうやら正気に戻った皆が騒ぎ出したらしい。

後は湯婆婆が何とかするだろう。

ハクは動こうとせず、ただ千尋の枕元に座ってじっと彼女を見つめていた。








ふ、と気がついて、ハクは部屋の入り口の方へと視線を向けた。

「――どうぞ」

そう声をかける。

襖を開けたのは――――坊だった。

だが襖を開けただけで入ろうとせず、じっと入り口の処に立ちつくしている。

「…貴方が元に戻られたのでしたら、他の人ももう大丈夫でしょうね」

「……千の具合、どうだ?」

亡霊に体を乗っ取られていてもそこらはさすがに湯婆婆の息子というべきか。

意識を体内に封じられつつも外の様子はずっと窺っていたのだろう。

「疲れ切っているようですが、暫く休養をとれば元のように戻るでしょう。少し時間がかかるかもしれませんが」

「……良くなるまで千は仕事をしなくっていいってバーバに伝えとく」

「坊」

そのまま去りかけた坊を、呼び止めたのはハクの方だった。

「―――すぎた好奇心が一体何を招くか、これで懲りたでしょう」

そのしょんぼりした様子から坊が相当反省しているのは分かっていたが―――それでも口に出して言わずにはいられなかった。

どうせ湯婆婆の事だ、坊に対して何も処分はせずただ彼の事だけを気遣うだろうから。

そしてそれを黙って仕方ない、で済ませられるほど、ハクは優しくはなかった。

「千がどれだけ危ない目に遭ったか――――」

「分かってる」

「今度このような事があったら―――もし千尋に何かあったら」

ハクはじっと坊を見据えた。

「―――殺してやる」

「………」

語気を荒らす訳でも怒りが感じられる訳でもなく、ただ淡々と。

そう告げるハクに本気を感じ取り、坊はただその場を去るしか出来なかった。

















湯屋は元の通りのにぎわいを取り戻した。

囚われていた者たちは皆自分たちに何が起こったのかを知る事もなく、いつも通りに働いている。

ただ千尋はかなり衰弱していた処を無理に動いてしまった反動から一週間ほど寝込む事になり、その時間の大半をハクの部屋で過ごすことになった。

―――女部屋だとばたばたしてゆっくり休めないだろうから、というハクの言葉と、坊による湯婆婆への根回しがあった為にそうなったのだが。










「……ねぇ、ハク」

身を起こせるまでには回復したのだが、まだ起きているよりも横になっていた方が楽な為、千尋は布団に横になったままハクに話しかけた。

「なに?」

「結局、あの亡霊たちってこの湯屋から自由になりたかったんだよね」

帳簿付けをしていたハクは筆を止めた。

「湯婆婆に取り憑いて、自由になって……それからどうしたかったんだろう」

「どうだろうね……私にも分からないよ」

今となっては、もう誰にも分からない。

「――坊があの封印を解いたって言ってたよね」

「うん。銭婆が言うには、坊が封印を解くきっかけを作った為に、あの一番力の強い亡霊が目覚めて湯婆婆に取り憑いたんじゃないかって。亡霊たちは欲望が深いものに取り憑きやすいそうなんだ」

欲望が深いという事はそれがそのまま生命力にも繋がる。

湯婆婆の方にも「自分は大丈夫」という慢心があったのかもしれないが―――それを彼女が認める事はないだろう。

「―――そっか……」

千尋の声がだんだんと眠そうなものに変わってきている。

「さ、もうお休み。眠いのだろう?」

「うん……ちょっと、寝るね……お休みなさい……」

「お休み、千尋」

―――すぐに寝息が聞こえてくる。

かなり良くなったとはいえど、完全に元のようになるにはもう少し時間がかかるのかもしれない。

ハクは机から離れてそっと千尋の枕元へと近づいた。

千尋は穏やかな表情で眠っている。

ハクは屈み込むと、千尋の額にそっと口づけを落とした。




―――この湯屋でこの娘を守れるのは自分だけ。

何があってもこの娘を守らなければ。




そんな誓いを胸に秘めて、ハクは残った仕事を片づけるためにまた机へと向かった。





END

久しぶりの長編でしたが、こちらも血まみれになってしまいましたね……(^^; 部屋が血の臭いで充満する程に失血して生きてられるかどうかという処は微妙です。というか普通死んでます。そこらへんはファンタジーという事で許して下さい(汗)。
千と千尋のDVDを見ていて、ハクもろともダストシュートに落ちる場面で下からわき上がってくるあの亡霊みたいなもの達、あれは一体何なんだろうな?(・▽・)?  という処からこの話を思いつきました。この話の中では亡霊たちを縛り付けてるのは湯婆婆、という事にしましたが、名をとられたままだと死んだからと言って自由になれる訳ではなさそうだよな……という辺りからこじつけてみましたが。果たしてどうなのか……謎は深まるばかりです。




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