そして誰もいなくなった
その10









湯婆婆の書斎は静まりかえっていた。

気配もない。

人の姿へと戻ったハクが油断なく辺りを見回す。

「……大丈夫そうだ。おいで」

手をひくハクに従って、千尋は前も歩いた道を辿り、あの小部屋へと続く部屋へと入っていた。

「え……!」

封印の部屋へと続いていた筈の扉の取っ手に、赤い文字のようなものが浮かび上がっている。

「――これで部屋を封じたつもりか」

ハクが手を向けると、その文字の色が薄まっていき―――やがて消え去ってしまった。

「急ごう。封印の文字を消した事で私たちがここに戻って来た事が向こうにも分かったはずだ」

「う、うん」

ハクに促されるまま階段を下り始める。

―――心臓がばくばく言っている。

怖くないといえば嘘になる。

血の臭いが残っているのがまた恐怖を煽る。

「……大丈夫か、千尋。後もうちょっとだから……」

ハクがぎゅっと手を握りかえして来て、千尋は「大丈夫」とややうわずった声で返事を返した。

(―――頑張らなきゃ。でなきゃリンさんも釜爺も、坊も――湯婆婆もみんな戻ってこれないんだから)



向こうに薄明かりが見える。

あれは封印の文字の光。

―――あの文字が光っているという事は、封印が解けて亡霊たちが蠢いているということだ。

(光を消さなきゃ)

その為に自分は来たのだから。












封印の小部屋に入った千尋は、部屋に残る血の臭いに口を押さえた。

むせ返るような血の臭いに吐き気が襲ってくる。

「千尋」

「……だ、いじょうぶ……」

せり上がって来た吐き気を何とか押さえ込み、千尋はハクの腕を掴んだ。

「封印は、どうやればいいの?」

「銭婆から聞いて来た」

ハクは千尋を支えるようにして正面の壁までやってくると、とある場所にすっと手を置いた。

「―――ここ、だ」

ハクが手をどけると、光り続ける文字のなかでたった一つだけ光っていない文字があるのが見えた。

「これが封印の核だそうだ。これに千尋の血で印を結び、もう一度封印をかけ直せばいい」

「ど、どうやってかけるの?」

「強く念じればいい。血の効力が強いから、呪詞はいらないだろう」

ハクは千尋の手をとった。

「千尋―――ごめん」

「え?」

ハクが千尋の人差し指にそっと唇を近づける―――――そして

「…いたっ…」

痛みが走ったと思った途端、指から血がつぅっと流れ出した。

「早く、その血で封印を―――」

何かに気がついたらしいハクが千尋を壁際に寄せて立ちふさがるように位置を変えた。

「―――!!」

小部屋の入り口に従業員たちが群がっているのが見える。

だがその顔つきはどれも千尋が知る者たちの顔つきではない。

亡霊に乗っ取られたその姿に危うく悲鳴を上げそうになるのを何とか堪え、千尋は壁にもたれかかった。

「私が時間を稼ぐ。その間に、早く!」

ハクは入り口に向かって何か呪文を唱え、ふっと白い鱗を吹きかけた。

その途端、今にも部屋のなかに押し入りそうになっていた従業員たちが何かの力に押しもどされる。

獣のような咆吼があがり、千尋はびくっと身を強張らせた。

「――く……数が多い、か……」

封印が弱まって来たことで向こうの力が増しているのか、ハクの力を持ってしても防ぐのがやっとらしい。

ハクのそんな呟きが聞こえてきて、千尋ははっと我に返った。

(私が、何とかしなきゃいけないんだから……!)

千尋は血が滲む指をぐっとその光っていない文字へと押しつけた。







―――お願い、今は眠って……あなた達が辛い思いをしてきた事は分かる。私も名をとられてたから、帰れない心細さも辛さも分かるの。でも……だからってこの湯屋をあなた達の好きなようにさせる訳にはいかないの……!






指の先がずきずき痛む。

頭がくらくらして、気が遠くなる。

ふらり、と倒れかけて千尋は何とか壁にもたれて倒れるのをふせいだ。

「千尋!」

異常に気がついたハクが近寄ろうとするのを、千尋は「大丈夫」と制した。

(今のハクに負担をかけちゃいけない……彼は防ぐので精一杯なんだから)

「めまいがしただけ……大丈夫だから」

「千尋……」

離れてしまった指をもう一度文字に押しつける。









―――あの亡霊達は、もしかしたら未来の私の姿だったかもしれない。

そんな彼らにもう一度永遠の苦しみの中に戻れというのは酷な事だという事も分かっている。

だけど。

(―――ごめんね、ごめんね……それでも、湯屋のみんなを失う訳にはいかないの……)










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