嵐の前の静けさ
その1

89000HIT キリ番作品








世の中はそろそろクリスマス。

人間界の賑わいはそのまま湯屋の賑わいに通じる。

「‥‥ヒマな神様が多いのかな」

なんて罰当たりな事を考えてしまうほどに、客は多い。

「それだけ疲れている神様が多いんだよ。今の世界は神様にとっては住み難い場所だろうからね」

ハクにそうたしなめられ、そんなもんかな‥‥と千尋は曖昧に理解した。



「おぉい、千! 玄関でお客がお待ちだ! 早ぅ行け!」

「はぁい、只今っ!」

兄役にそう怒鳴り返して、千尋は忙しく働いていた湯殿から飛び出した。

掃除もまだ終わっていないのだが、それはもうリンにあとを任せる事にして、とにかく玄関へと走っていく。


まったく‥‥ほかにもたくさん従業員はいるのに、どうして私を呼びつけるのかしらっ!

癖のあるお客の時にはいつも私をこき使うんだからっ!!


そんな事を内心ぶつぶつ思いながら玄関へと走っていく。

そして。

玄関に到着した千尋は、その場に立っているお客を見て、手に持っていた桶をがたーん! と床にぶちまけてしまった。


「Hai、Sen」

「い、い、い‥‥いらっしゃい‥ませっ」

少し前にやってきたルゥというあの外人の客(語弊有り)がにこにこ微笑んで立っていた。






「こ、こちらの部屋です」

「アリガトウ」

今度は日本語も少し話せるようになっているらしい。

これならば湯女や従業員と話が通じなくて困るという事もなさそうだ。

今日は英語の辞書を持ってきていないので、難しい言葉を出されても意味が分からない。

「今日、センは仕事する?」

「え? ぁ、はぁまぁ‥‥ここで雇われてる身なんで‥‥」

「明日は?」

「明日‥‥ですか‥‥?」

にこにこと微笑みながら聞いてくるルゥに何となく危機を覚えつつ、千尋はうーんと考え込んだ。

明日は、普通通りの勤務。

それ以上の事もなければそれ以下の事もない。

「別に‥‥‥普通に働くだけですけども」

「OK, then let's go out on a date tomorrow.」



‥‥‥はぃ?

千尋は思わず目をまんまるくしてルゥを見つめた。

「Date」

「いえ単語の意味は分かります‥‥‥が」

にこにこにこにこ。

満面の笑みを浮かべるルゥが、怖い。

「‥‥わ、わかりました‥‥」

そう答えなければ離してくれないかもしれない。

そういう危機感すら感じて、千尋は仕方なくそう答えたのだった。








「ええええっ、受けちまったってぇ!? どーすんだよ‥‥ハクに見つかったら、あとがこえぇぞ!?」

リンに言われ、「やっぱりそうだよね‥‥」と千尋はしゅーんとうなだれた。

今更愚痴って見ても仕方ない。

客――――しかも上玉の客であろう神の言いつけを断る事など、たかだか従業員風情の千尋に出来る訳がないのだから。

「‥‥ハクは?」

「今日はまだ話してないの。忙しそうに歩いていく姿は見たんだけど‥‥」

「‥‥ならまだ知らないんだな。それなら今日のところはこのまま寝ちまえ。明日さえ切り抜ければ何とでもなるんだからな」

あとでバレたらお仕置きも3割増しになりそうな気もするが――――とりあえずはそれしか方法はなさそうだった。

「口裏はここにいる全員で合わせるから、どーんと任せろ!」

胸を叩いてみせるリンに、千尋は一抹の不安を抱いていた。

いくらリンが気っ風が良くても、まずハクのあの勢いには勝てまい。


‥‥‥シクシクと、胃が痛い。

今日は眠れそうになかった。







昼。

まだ湯屋はひっそりと静けさに包まれている。

ひとけのない筈の玄関で、人影がウロウロと見え隠れしていた。

「‥‥まだかな‥」

千尋があっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロと如何にも不審者といわんばかりの視線をあちこちに送っている。

「セン」

その声に安堵と緊張の両方を感じ、おそるおそる振り返る――――

そこには相も変わらずきらびやかな鎧をまとったルゥの姿があった。

背に結わえられている槍が、件の本に書いてあった「ブリューナグ」という聖槍だろう。

「? どうか、しましたか?」

たどたどしく言われ、慌ててぶんぶんと首を横に振る。

「い、いえっ! じじじじゃあ行きましょうかっ!」

千尋はルゥの腕をとってずんずんと歩き出した。



それを、湯屋の屋根の上で座ってじっと見ている――――黒髪の少年の姿。

紛れもなく、ハクであった。











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