痴話喧嘩
その1
「千っ、早くしな! お客様がお待ちだよ!!」 「はーい、ただいまっ!」 湯屋が開いてからずっと走り回っていた千尋は、渡された料理を運び終わって辺りを見回した。 「‥‥足、いったぁ‥‥」 座る事も出来ずずっと走り回っていた為に足が棒のようになっている。 周りに誰もいないのをいいことに、千尋はそこに座り込んで「ふう」と息をついた。 今日は特に団体客が多い為か従業員達は皆かり出され、忙しそうに働いている。 湯屋が終わる時間まで後3時間ほど。 「はぁ〜〜‥‥‥頑張って働こっかな‥‥‥」 よいしょ、と立ち上がり。 向こうからなにやら声が聞こえてくるのに気がついて、千尋はふと廊下を覗き込んだ。 「!!!!」 慌てて身を隠す。 それからもう一度そぉ〜〜‥‥っと覗き込む。 「ハク様、そのお言葉はあまりにもつれのうございますわ‥‥」 「困りましたね‥‥私も仕事中ですから、そのようなお誘いをかけられても‥‥湯婆婆様に私がおしかりを受けます」 ハクと客の1人らしい女性が廊下の片隅でなにやら怪しげな会話をしている。 「まぁ‥‥この前来た時には、もっと優しい言葉をかけて下さいましたのに‥‥」 女性はハクの首に腕を回し、顔を近づけていく。 もう少しで唇が触れそうなところまで近づいても、ハクは逃げようともしない。 よくよく見れば、ハクの腕はその女性の腰に回されていて。 「前の事をそのように覚えていてくださったとは‥‥光栄ですよ」 千尋はそれ以上見ていられなくなり、頭を引っ込めた。 なんなのっ。 なんなのこれはっ!? あーそうですか。 私に色々と言っておきながら、他の女性にもこーゆー事してた訳ね!? しかもお客様に〜〜〜〜〜〜〜っ!!!! 千尋はぐぃっとにじんできた涙を手の甲で拭った。 ハクがその気なら‥‥私だって!!! 拳を握りしめ、天井を仰いでなにやら誓う千尋であった。 「お疲れさま〜〜」 三々五々散っていく従業員たち。 その中に千尋の姿もあった。 壁にかけられた名前札を裏返し、そのまま歩いていく。 「千尋」 その声に千尋の足がぴた、と止まった。 ハクが立っているのが見える。 が。 千尋はつん、とそっぽを向くとそのまま歩き去っていってしまった。 合点がいかないのはハク。 ――――何故、私が千尋に無視されなければならないのだ!? 一昨日、激しく愛しすぎた事か? 確かに怒られたが、結局それも恥ずかしそうにしつつも受け入れていたのに。 おかしい。 納得がいかない。 ハクはそう結論づけて、千尋の後を追うべく歩き出した。 「千、待ちなさい!」 すぐに千尋は見つかった。 階段を上っていた千尋の腕をむんずとつかむと、彼女はくるっと振り返った。 「何のご用でしょう? ハク様」 冷たい物言いに、ハクは眉をひそめた。 どうしてここまで千尋に冷たくされなければならないのか、その理由が見つからない。 「何を怒っているのだ?」 「別に、怒ってなんかいませんよ」 不機嫌そうな顔で言われても説得力がない。 「何か言いたい事があるなら拗ねずに言いなさい」 「拗ねてません」 「拗ねている」 「拗ねてません!」 「拗ねている!!」 階段のど真ん中で口喧嘩を始めた二人を、従業員たちが遠巻きに見物し始める。 が、誰も止めようとはしない。 下手にこの二人に関わったら身が危ないのは湯屋に働く者ならば末端に至るまで知っている事であるからだ。 「何往来のど真ん中で痴話喧嘩してんだよ」 その声にハクと千尋は同時に振り返って怒鳴った。 「痴話喧嘩じゃないッ!」 それに動じる事のない唯一の存在―――――リンは、大笑いを始めた。 「ンな事怒鳴ったって説得力ねぇよ。怒鳴り声までハモってるんじゃなぁ」 ハクは眉をひそめ、千尋はかぁぁっと赤くなる。 「とにかくっ! 私失礼しますから!!」 千尋はハクにそう怒鳴りつけると、そのままずんずんと階段を上っていっていき―――従業員たちを押しのけて歩いていってしまった。 ハクがそれを追おうとするのを、リンがぐっと腕をつかんで止めた。 「今度は何やらかしたんだ?」 ニヤニヤ笑って聞いてくるリンの腕を振り払い、ハクは思い切りリンを睨み付けた。 「そなたには関係ない」 「でーもなぁ。千のやつ、ありゃ相当怒ってたぜ。あんだけ怒らせるって事ぁ、何かやらかしたに決まってっだろ」 「していない」 即答するハクに肩をすくめてみせ、リンが視線をふぃっ‥と上に向ける。 ハクもそれにつられるように視線を向けた。 「‥‥覚悟しとけよぉ。ありゃ当分口聞いてもらえねぇぜ」 リンに言われるまでもなく。 ハクも千尋が本気で怒っているらしい事は感じ取っていた。 だからといって。 どうして怒っているのかという原因まではさすがのハクも見当もつかなかった。 |