記憶の向こうに
1
4年。 我々竜にとっては瞬きほどの瞬間。 でも、私にとっては、これほど永い時間もなかった。 「ハク様、湯婆婆様がおよびです」 帳簿をめくっていた私は、顔をあげた。 来るべき時が、来た。 そう感じた。 あの時から、ずっと私が待ち続け、恋い焦がれた時が。 「――――来たね」 私が部屋に入ると、湯婆婆はなにやら書類をめくっているところだった。 「どうして呼ばれたか――――は分かっているようだね。いつになく嬉しそうな顔をしおって‥‥可愛くないね」 嫌みを受け流し、私は一歩前に出た。 「今日が、約束の日のはずです。私との契約を破棄し、解放するという約束の」 あの日、私は湯婆婆に「弟子をやめたい。千尋の元に行きたい」と申し出た。 それに対する条件は、4年間の奉公。 4年間、一日も休まず勤め上げれば―――名を返し、自由にしてやると。 その新たな契約を私は受けた。 千尋の元に行くには―――それしかなかったから。 「ああ、そうだね」 湯婆婆はたくさんの書類の山から一枚をふわりと抜き出し―――私の前へと突きだした。 そこには、私の本当の名前が書いてある。 「私の名を、返して頂きます。出された契約は果たしました」 私はその書類を手にとった。 「―――饒速水琥珀主。私の―――本当の、名‥‥‥」 私が自分の名を口に出すと―――書類は力を失い、一瞬にして塵と消えた。 湯婆婆が舌打ちするのが聞こえてくる。 「さぁ、これであんたは自由だよ」 私は深々とおじぎをし、「お世話になりました」と一言言うと、背を向けた。 「―――ああ、そうだ」 何か思いだしたような湯婆婆の声に、私は振り返った。 「あんた‥‥千の元に行くんだろ」 湯婆婆が何を言おうとしているのか分からず――――今更分かり切った事を口に出す理由を考えあぐね、私は次の言葉を待った。 「いくら契約がなくなったって言ったって、あんたは人間にゃなれない。それは、わかってんだろうね?」 「‥‥‥‥‥‥」 分かっている 今更どうしようもないこと だとしても 焦がれるのを抑える枷にはならない 逢いたい 声を聞きたい 触れたい その気持ちを抑える事はもはや出来ない 「それに、千は向こうの世界に帰った時にここの記憶をなくしてるはずだ。あんたの事を忘れてるかもしれないんだよ。それでもいいってんだね?」 湯婆婆が意地悪く笑う。 4年前、湯婆婆があっさりと許したのは――――きっと私が逢いにいっても、千尋が私の事を忘れていると思っていたからだろう。 でも、銭婆は言っていた。 ―――忘れてるんじゃない。ただ、思い出せないだけさ。 そう 千尋は私の事を覚えてくれている 今は、思い出すきっかけがないだけで あの時、私の名を思い出してくれたように だがもし もし私の事を思い出さなかったとしても それでも――――― 「それでも、かまわない。私は―――」 私は 千尋に逢いたい このような遠い場所で、ただ想うだけは―――もう嫌だ 「ふん‥‥そんなら何処へなりともお行き」 湯婆婆はそれっきり、興味を失ったとでも言いたげに書類に目を落とした。 もう一度頭をさげ、私は湯婆婆の部屋を後にした。 |