記憶の向こうに






ようやく見つけた沢で水を汲み、竹筒の蓋をする。

「――――?」
千尋?
千尋が―――泣いている?

聞こえる訳でもなく、感じる訳でもない。

でも

分かる。


「‥‥千尋!」

私は千尋の元へと急いだ。





私の姿を見た千尋の瞳から涙がぼろぼろこぼれ落ちる。
―――どうして、何故泣くのだ?

「‥‥千尋?」
私が声をかけるたびに、千尋の涙が増えていく。

頭が混乱する。

何故?

「千尋‥‥どうしたんだ‥‥何故、泣いている?」
私は千尋の肩を抱き寄せ、顔をのぞき込んだ。
千尋は流れ落ちる涙を手の甲で拭いつつ、言葉を紡ぐ。

「ハク‥‥いなく‥なっちゃったかと思った‥‥びっくり‥‥しちゃった‥‥」
涙の理由が分かり―――私は苦笑するしかなかった。



目が覚めた時に私がいないのに気づいて、夢ではないかと疑ったのかもしれない。
一途なところは、何も変わっていない。



「千尋‥‥千尋‥‥大丈夫‥‥大丈夫だから‥‥」
千尋の背を撫でて、何度も言葉を繰り返す。

千尋は今まで耐えていたものが堰を切ってしまったかのようだ。
「やぁ‥‥やだよぉ‥‥ハクと、離れるの‥‥やだぁ‥‥」
「そなたの元にいる。ずっと、そばにいる。私の名にかけて―――誓う」


言霊の誓い

神々が消えつつあるといえども、まだまだこの世に神は生きている

千尋とともに生きるために、千尋を守るために

私はそのためにこの世界に戻ってきた

この誓いが守れぬならば、この身を焼かれようともかまわない




やがて泣きやんだ千尋は、もじもじと恥ずかしそうに私を見上げた。
「千尋、のどが渇いているだろう? 水を飲みなさい」
私が渡した竹筒を受け取り、水を飲むと千尋は落ち着いたらしく、息をついた。



千尋の様子が落ち着き、私の方も改めて千尋を見る余裕が出来た。

身長がのび、体つきもずいぶんと女らしくなってきている。

あの時のリンくらいにはなっているのだろうか。


「千尋は、ずいぶんと成長したね」
つい、そんな言葉が口をついて出た。

「え、う、うん‥‥中身は、全然変わってないけど‥‥からだだけ‥‥。で、でもハクだって‥‥あの時よりも成長してるよ?」
私が、成長?

竜の寿命は人間のそれよりも遙かに長い。

私は川を失った事で本来の生からはずれてしまったが、竜としてはまだほんの子供にすぎない。

本来ならば4年という短い歳月で人間のように成長するはずはない。

今まで名を奪われた事が私の成長を妨げる枷になっていたのが、枷がなくなった事で今まで成長出来なかった分を一気に取り戻し始めた―――きっとそんなところだろう。

油屋で働いている時にはそんな事を気にする余裕もなかったから、気がつかなかった。


「私の場合は―――少し違うのだけどね。年月がたったから成長した訳ではないよ」
千尋はよくわからない、といったように私を見つめている。
あの時は―――こんな風にゆっくりと話す暇もなかった。
もう、湯婆婆の目を気にする必要もない。



私は手を千尋に伸ばした。

指が、頬に触れる。

少し触れただけで、千尋が頬を染める。



「千尋が変わっていなくて―――私は嬉しかった。優しい心も、一途なところも、ひたむきなところも、何も変わってない」
目が赤くはれている。
そっと指で撫でていくと、何故か千尋がどんどん赤くなっていく。

「私の名前も、ちゃんと覚えていてくれた」
千尋が私の名を覚えていてくれたから、私はこの世界にとどまれる。

「あの世界の掟で、すべて忘れてしまっていても―――私の事を覚えていてくれた千尋のために、私が出来る事ならば何でもしたい。それで、千尋のそばにいられるのならば―――私は何も惜しくはない。自分の命も、存在も、何もかも‥‥」
「ハク‥‥‥‥」


そう
これからはずっと―――――


「千尋――――」

私は千尋をそっと抱きしめた。




突然、腕の中で千尋がくたり、と力を抜いてもたれかかってきた。
「千尋?」
何が起こったかと慌てて千尋を押し戻す―――――と。


千尋は気を失っていた。



「――――全く」
苦笑するしかなかった。
「全く‥‥‥変わっていない」


気を失ったのに、千尋は気持ち良さそうな寝息をたてている。

それだけ、私を信頼してくれているということか。


今は夢の中にいるであろう千尋を抱きしめて、私は優しく彼女の髪を撫でた。

彼女の髪で髪留めが陽に反射して、キラリと光っていた。







千尋を家に送り届け(私が姿を現すとまずいので、魔法を使っておいた)、私は森へと戻ってきた。

今はもう、琥珀川もない

私の居場所は、ここしかない

それでも――――木に身をゆだねていると、まるで川とともに生きていた頃に戻ったような錯覚に陥る。


――――千尋は、もう目覚めただろうか。

竹筒とともにおいてきた手紙は、もう読んだだろうか。



「‥‥ふふ‥‥」
声をあげて笑うなんて―――いつぶりだろう。

明日になって狼狽しまくっているであろう千尋を想像し、私は笑いを堪えきれなかった。

月はまだ高い。

しかし、油屋のあの廊下から見る月に比べて、ここの月はずっと近く感じられる。

あの月が、千尋に安らかな眠りをもたらすように―――――――
私は呪文を呟くと、そっと目を閉じた。






かさかさ、と音がする

近づいてくる気配

木の枝の上でまどろんでいた私は身を起こした。

まだ陽が登って間もない―――人間の世界の時間でいえば、まだ6時をすぎたあたり。

―――――もう、来たのか。


私が木から降りるのと同時に、森に声が響いた。

「ハク――――――!! どこ―――――!?」


声にかすかな不安を滲ませ、キョロキョロとあたりをうかがっていたのが―――私の姿を見たとたんに、ぱぁっと明るい顔になる。


「おはよう! ハク!!」


私はちょっと髪をかきあげ、微笑んだ。


「―――おはよう、千尋」





END
「記憶の彼方に」が千尋視点でしたが、今度のはハク視点です。ハク視点‥‥‥難しい!!(汗) 千尋視点がすらすら書けたのに比べて、なんか手こずってしまいました。リンクさせたのも難しくなってしまった要因かも‥‥‥特に、ラストが嫌い(涙)。でも書き直したらよけいにヘンになったので最初ので行きます‥‥(汗)。