波紋
その1

90000HIT キリ番作品







外が騒然としている。

どうやらかなりの上得意客がやって来たようだ。

湯婆婆自らがやってきて玄関でお出迎えするという事は、相当なものだろう。

おそらく咲耶姫くらいの神格を持つ客ではないか。


なんて事を考えながら千尋は割り当てられた湯殿の掃除を黙々とこなしていた。

一番下っ端の小湯女である千尋には関係のない事。

の筈だったのだが――――――。




「‥‥ん?」

汗を拭ってふと振り返ると、湯殿の出入り口から1人の少女が顔をのぞかせているのが目に入った。

まだ6、7歳くらいの幼い女の子。

千尋が仕事をしているのをさっきから見ていたのだろう、興味津々といった顔で見つめている。

「あの‥‥何か、ご用?」

千尋がそう話しかけると、少女は恥ずかしそうにこそこそっと隠れてしまった。

「‥‥‥??」

が、千尋が再び仕事を始め、横目でちらっとうかがうと、またのぞいて来て興味津々に見つめているのがわかる。

着ているものもちらっと見ただけだが、金糸が織り込まれた着物である事は間違いない。

長い黒髪を彩る髪飾りも綺麗で、神格も高そうだ。

きっとさっき来た客の連れてきた子供だろう。

「ミズハ!」

遠くから声が聞こえて来る。

この女性の声は、この少女の母親のものだろう。

「何処におるのじゃ、早ぅゆくぞ?」

「はぁい!」

ミズハと呼ばれた少女は名残惜しそうに千尋を見つめると、ぱたぱたと駆けていった。

気配がなくなったのを確認し、千尋はようやく仕事を中断して出入り口の方を見つめた。

「‥‥さっきの子、なんだったんだろ‥‥‥?」

その答えは、すぐに分かる事になる。







「おぃおぃおぃおぃっ! きーたかきーたか!?」

リンが泡食って入ってくるのを千尋はどうどうと宥め、

「どしたのリンさん」

「どーしたもこーしたも! 今日来た客、聞いたか!?」

千尋の周りにいた湯女達も千尋も「知らない」と首をふるばかり。

「伊邪那美命だと!!」

そのとたん、湯女たちはざわめきはじめ「うそー」とか「粗相があったら大変よね」とか色んな会話が飛び交いだした。

その中で分かっていないのが千尋ただ1人。

「あのぅ‥‥‥イザナミノミコトってだあれ?」

かくんっ、と転びかけたリンは、千尋の肩をもって「そんくらいはいくら人間でも知っておくべきだと思うぞ‥」と念押しをしてから、説明を始めた。



伊邪那岐命、伊邪那美命と言えば日本神話の中でももっとも有名な夫婦神。

国生みの神とも言われ、この二人から国土もほかの神も生まれたという創世神である。

それだけ有名な割にはその正体などは謎に包まれている事が多く、人間の御代になってからは姿を現した事はなかったらしい。

その妻の方の伊邪那美命が姿を現したそうだ。

小さな女の子を1人連れて。



「ふーん」

「ふーん、て‥‥そんだけか?」

「だって‥‥ごめん、私良くわかんないんだもの」

現代世界に生きる千尋には、「国生みの神」と言われてもピンと来ない。

まだ「富士山の守護神」の咲耶姫の方が理解できる。

「ま、まぁいいけどな‥‥あ、そうだ」

リンは思い出したように付け加えた。

「あの女の子、今はハクが遊んでやっているらしいぜ」

そのとたん、千尋はぴきんっと固まってしまった。








千尋もやはり女。

気になってこそこそっと見に行ってしまうのは仕方がないだろう。

ハクとそのミズハと呼ばれた女の子は庭で遊んでいる最中だった。

「コハク、あれは何じゃ? 煙が出ておる!」

「あそこにボイラー室があるのですよ、ミズハ様」

ハクにだっこされてミズハはきゃいきゃいと騒ぎ、興奮気味の様子である。

ミズハが騒ぐたびに、黒髪を束ねている髪飾りの装飾がゆらゆらと揺れて、光に反射している。

「‥‥ん、千尋か?」

草むらに隠れて様子を見ていたのに気がついたらしい。

ハクにいきなり呼ばれて千尋は飛び上がってしまった。

「は、ハク‥‥‥気がついたの?」

「千尋の気配はすぐに分かるよ」

仕方なく千尋が姿を現すと、ミズハがびくっと体を硬直させるのが分かった。

「ああミズハ様、大丈夫ですよ。千はここの従業員ですから」

「人間であろ? 大丈夫なのか??」

どうやら千尋が人間であるので警戒しているようで、ミズハはハクにしがみついたままちらちらと千尋を見ている。

「大丈夫です。優しい娘ですから」

それでようやくちょっと警戒心を解いたのか、ミズハは千尋にぎこちなく笑いかけて来た。

なんだか、可愛い。

ハクにだっこされているのを見て不快感を感じていたが、その笑い顔が可愛いのでちょっとだけ許す事にする。

「千です、よろしくお願いしますね。ええと‥‥」

「わらわは、ミズハ。罔象女神(ミズハノメノカミ)じゃ」

ミズハの言葉にハクが続ける。

「姿はまだ幼いが、水や川を司る女神様なんだよ」

水や川をつかさどる、女神。

という事は――――――

「つまり、ハクにとっては‥‥‥‥」

「私は一介の川の主にすぎない。ミズハ様は、無数にある川や水全てを象徴する女神様だから、私にとっては親にも等しい存在、になるね」


この小さい女の子が、川全てを統括する女神様ぁぁぁぁ!!?



未だ警戒心を残し千尋をじっと見上げるミズハに、そんな力があるなどとうてい見えなかった。