舞姫
その1
78000HIT キリ番作品
今日は千尋はいない。 「試験」とやらでいったん自分の世界に戻らなければならなくなった為である。 明日には戻って来る―――のだが、それだけで何故かあたりが暗くなったような印象すら見受けられて。 ――――正直いって、つまらない。 ハクは帳簿をめくっていたが、やがて「はぁ」と溜息をついた。 この男にしては珍しい事である。 「ハク様! ハク様!!」 あわただしく呼ぶ声がうっとうしい。 やがて青蛙が慌てふためいて走って来た。 「なにごとだ‥‥もう少し穏やかに呼べないのか」 「は、はぁ。し、しかしっ‥‥」 まずは来てくださいと繰り返す蛙に、仕方なくハクは重い腰をあげた。 こんな日はあまり仕事はしたくないのだが、と1人呟いて。 玄関は騒然としていた。 その人だかりをかきわけてやってきたハクもその場に立ちつくし呆然としてしまった。 「ち‥‥千尋?」 思わず声をかけてしまうほどに。 「わたくしは誰かに似ているの? さきほどからセンという名があちこちから聞こえるのだけど」 そう訊ねてくる声は、千尋のものと少し違う。 いや、千尋の声がもう少しハスキーになったらこんな感じかもしれない。 とにかく。 そこには千尋そっくりの女性――――女神が立っていたのだった。 さすがの湯婆婆もその姿に驚きを隠せない。 「‥‥千にうり二つだね‥‥こんな神がいるなんて知らなかったよ」 「ええ‥‥しかもかなり有名どころの女神さまですよ」 さっき聞き出した名前にハクはまたもや愕然としていた。 「なんだって?」 湯婆婆の問いかけに答える‥‥という風でもなく、ハクはぼそっとその名を呟いた。 「―――――天細女神(アメノウズメノカミ)‥‥です」 「‥‥ウズメ‥‥‥なるほど、巫女神か‥‥」 天細女神。 舞などの芸能を司り巫女神と言われる舞姫で、もっとも有名なエピソードは、天照大神が岩屋に隠れた時に、舞を岩屋の前で踊って見事天照大神を誘い出したというもの。 元々は祭の時に祈願成就の舞を舞う踊子や祈りを捧げる巫女が神格化したものではないかという言い伝えもあるほどだから、ヒトに似ているのもしごく当然なのかもしれない。 が。 よりによってどうして千尋に似ているのだろう。 明日には千尋が帰ってくる。 やっかいな事にならねば良いが。 そう思い、ハクはまたもや溜息をついた。 「只今帰りましたーっ」 千尋の元気な声が湯屋に響く。 その声につられるようにしてばたばたと湯女たちが出迎えにやって来た。 その筆頭はリンである。 「千!!」 玄関で靴を脱いでいた千尋は、飛び出して来た湯女たちにびっくりし、おずおずとまわりを見回した。 「ど、どうしたの‥‥一体?」 「千、よ〜〜〜っく落ち着いて聞けよ‥‥。何があっても、驚かないようにな‥‥」 肩をつかんでそう告げるリンに、千尋は目をぱちくりさせるばかり。 「ええ‥‥?? ど、どうしたのリンさん‥‥?」 「いいから‥‥絶対に、心騒がせるなよ!?」 「う、うん‥‥」 部屋に行くまでの間何度も念を押され、着替えている間もまだ押される始末。 一体何が起こったのか―――――それを不思議に思いつつ、千尋は水干に着替えてトントン‥と階段を下りていた。 廊下に出て――――ぎくっと立ち止まる。 「そなたがわたくしと良く似た人間の娘御‥‥‥確かに良く似ている」 自分とよく似た女性。 違うところといえば――――自分は髪をくくっていて向こうは髪を下ろしている。 自分はあそこまでプロポーションは良くないが、向こうはナイスバディ。 そんなところだろうか。 顔立ちは自分に似ているためかもの凄く美人っという訳ではないが――――その醸し出す雰囲気と人なつっこい笑顔は十分に周りを惹きつける。 「わたくしと良く似た娘がいると聞いて楽しみにしていたの。わたくしは天細女神。細女〈ウズメ)と呼んでくれてかまわないわ。あなたは?」 少し低い声だが、それが聞いている者の耳に心地よい。 「あっ、は、はいっ‥‥ち‥‥」 千尋、と言いかけて慌てて訂正する。 「千、です」 「そう。千というの‥‥よろしく、千」 握手を求められて手を握ると、その手はほんのり温かかった。 「しっかし良く似てるよな‥‥千、実は人間じゃなくて隠し子だったりするんじゃないか?」 リンの言葉に千尋は思わず壁に頭を打ち付けてしまった。 「じ、じ、冗談キツいよリンさんっ! 私は紛いようのない人間だよっ!?」 「わかってっけどさぁ‥‥あそこまで似てると気味悪ィよな?」 「でもよくよく見たら違うよ? 私あそこまで美人じゃないし‥‥」 「そかー?」 そんな事を喋りつつ廊下を歩いていた千尋とリンは、「わぁぁっ」という歓声に足を止めた。 「なんだろ‥‥向こうが騒がしいね」 歓声は通り過ぎようとした廊下を曲がったあたりから聞こえる。 いつもはツアー客の宴会場として使われるところだ。 「なんだろ、行ってみない?」 千尋が行こうとするのをリンがはっしと掴んで止めた。 「やめとけ」 「なんで? ちょっとのぞくくらいの時間はあるよ?」 「いーからっ! 行くぞっ!」 いつもならのってくる筈のリンが、何故かそそくさとこの場から離れようとする。 まるで、千尋をその場所に行かせまいとするように。 「‥‥リンさん? 何か隠してない?」 ぎくん、とするリンのその表情が「隠しています」という何よりの証拠。 「べ、別にそんなんじゃねェよ」 「うそ! 絶対に隠してる! 私、見てくるね!」 「あああ、やめろ千――――!!」 リンの警告もむなしく、千尋はだーっと走っていってしまった。 後に残されたリンは呆然と立ちつくすばかり。 「‥‥オレ、しーらない‥‥」 何もきかなかった事にして、その場をそそくさと立ち去るリンであった。 |