四次元水干
1
「きゃぁっ!!」 千尋は短い悲鳴をあげて、そのまますってーんと前に転んでしまった。 手に持っていた桶は周囲にぶちまけてしまい、派手な音をたてて廊下を転がっていく。 「あいったー‥‥」 千尋はしたたかに打ち付けた膝と肘をさすりつつ、何とか立ち上がった。 「何やってんだ‥‥」 リンが呆れた顔で千尋を見下ろしている。 「あ、あはは‥‥ごめーん‥‥」 立ち上がろうとした千尋は膝から血が出ていることに気がついた。 どうやらすりむいたらしい。 これから水仕事なのに、しみたら痛そう‥‥‥。 そんなことを考えていた千尋の頭上が、いきなり暗くなった。 「?」 ひょい、と千尋が上を見上げると―――――ハクが立っていた。 ハクはおもむろに自分の水干の合わせに手を突っ込むと、そこから何かを取り出した。 「これを使いなさい」 ハクが出して来たのは、絆創膏。 「これで、水に濡れてもしみないだろう」 それを受け取り、千尋はぺこっと軽く頭を下げた。 「あ、ありがとうございます‥‥」 仕事中は、上司と部下の関係なので一応敬語。 なのだけど‥‥‥。 「たゆまず頑張るように」 そう告げて去っていくハクは、どう見ても「千尋にだけ」は甘い上司であった。 それから数時間後。 仕事が終わった千尋は、廊下をぺたぺたと歩いていた。 そのとたん。 ぐ〜〜〜〜〜〜‥‥‥ 「!!!!」 派手におなかをならしてしまい、慌てて辺りをキョロキョロとうかがう。 「‥‥‥晩ご飯、あれだけじゃ足りないよぉ‥‥」 白いご飯にたくあんが二切れ。 育ち盛りの千尋にはとうてい足りない量である。 朝はまだまだ遠い。 はぁ‥‥という千尋のため息に同調するように、またもやおなかが「ぐぅ〜〜〜〜」となった。 その時 向こうからぺたぺたと歩いてくる足音に気がついて、千尋ははっと視線を向けた。 向こうから歩いてくるのは、ハク。 「ハク‥‥‥? もうお仕事終わったの?」 仕事は終わっているから、今はもう自他ともに認める恋人どうし。 千尋は気兼ねなくハクに話しかけた。 「うん。さっき終わったところ」 「そう。ご苦労様‥‥」 でした、を言おうとした瞬間、千尋のおなかが再び「ぐぅ〜〜〜〜」と派手な音をたてた。 「‥‥‥‥‥‥」 「‥‥‥‥‥‥」 「‥‥‥‥‥‥」 「‥‥‥‥‥ぷっ」 いきなりハクが吹き出し、千尋はかぁぁぁぁっと真っ赤になった。 「き、き、き、聞いたわねっ!!!」 「おなか、すいてるの?」 ハクは笑いながら水干の合わせに手を突っ込むと、中から笹にくるまれたおにぎりを出して来た。 「ちょうど夜食にしようと思ってたのがあるから、それをお食べ。私はおなかすいてないから」 「え、い、いいの?」 「千尋のほうがよく働いてるんだからおなかもすくだろう? いいよ」 色気と食い気と言われれば、まだ食い気が勝つ年齢。 ハクのおにぎりを嬉しそうに受け取って、「ありがとう!!」と元気よく礼を言う千尋であった。 その次の日。 びりっっっっ!!! 「うそー!!!!」 ちょうど出っ張っていた釘に、水干が引っかかり派手な音をたてて裂けてしまった。 千尋は慌ててそこを手にとって見たが、水干は見るも無惨な状況。 「あーあ‥‥これしかないのに‥‥どうしよう。お裁縫道具なんてもってないよぉ‥‥」 「どうした?」 と、そこに通りかかったのはハク。 千尋が腹掛け姿で突っ立っているのを見て何かあったと思ったらしい。 「あ、ハク‥‥‥その、水干が破けちゃって‥‥‥」 「どれ‥‥」 かぎ裂きが出来た場所を調べ、ハクは「ああ‥‥」と声を漏らした。 「これくらいなら繕えば大丈夫だよ」 「でも‥‥私、お裁縫道具もって来てないの‥‥」 「持ってるよ」 ハクは水干の合わせからソーイングセットを取り出して、近くのいすに座り破れたところを器用に縫い始めた。 その手つきの良さに千尋はただ目を見張るばかり。 最後に糸を歯で切り、きちんと直ったのを確認してから、ハクは「はい」と千尋に水干を手渡した。 「どうぞ。今度からは気をつけるんだよ」 「う、うん‥‥ありがとう」 千尋は水干を受け取ってもそもそと袖を通した 「あ、そうだ。千尋、これを後でリンに渡しておいてくれ」 ハクが水干の合わせからなにやら巻物のようなものを取り出して千尋に手渡す。 「‥‥これは?」 「リンがほしがっていた賞与の明細だ。渡せばわかるから」 「‥‥う、うん‥‥」 「じゃあ、頼んだよ」 そのままハクは自分の仕事場のほうへと歩いていく。 千尋はそれを呆然と見送っていた。 |