すれ違い








ハクはいつもの通り仕事を終え、油屋内にしつらえている自分の部屋へと戻って来た。

ここのところ油屋が繁盛しているのは嬉しいのだが、帳簿を預かる自分の仕事も当然忙しくなる。

せっかく千尋が油屋でバイトとして働いているというのに、話もままならない。

時々顔を見るが、向こうも気がつかないようで走っていくのを見かけるだけだ。

かなり、切ない。

ハクは自分が大きな溜息をついてるのに気がついて苦笑した。

千尋も同じように寂しがっていたら嬉しいんだけど、と一人呟いて。








「‥‥‥常連客の、ですか?」

湯婆婆に呼び出されたハクは、常連の接待をするようにと言われ目を丸くした。

「ああ。気位が高い客なんだが、払いはいいしよく来てくれる客だから無下にも出来ないしね」

「そう‥‥ですか。それなら‥‥」

「くれぐれも、客の機嫌を損ねないように頼んだよ」

という注意を受けた後、ハクはその客の部屋へと向かったのであった。





気位の高い客、というのはいわばハクの同族であった。

川の神。

ハクよりもずっと経験豊かな、それでいてみずみずしさを保つ、女性の姿をとった神。

「近頃は人間達が自然を守れ、なんて言ってるから前に比べたら状況はマシかしらね」

愚痴をこぼす相手が欲しかったらしく、客は色々とまくしたてる。

ハクは曖昧に返事をするにとどめ、その客の愚痴を聞くに徹していた。

目の前の神は、おそらくハクよりも強い力を有しているだろう。

今もまだ厳然と流れる川の主であるがゆえに、その力も無限大だ。




――――羨ましい


そう、思わないでもなかった。

川をなくしてしまった自分には、もはやその無限とも言える力はない。

その力を補うのが魔法の力だが、それとてまだ湯婆婆や銭婆の域に達するまでにはほど遠い。

神にもなれず、魔術師にもなれず。

中途半端な場所でいったりきたりしている。




「そういえば、アンタも"元"川の主なんだってね?」

そう話を振られて、ハクははっと客に視線を戻した。

「はい‥‥埋め立てられてしまい、今はもう無い川ですが」

「そんな少年の姿しかとれないんだから、よっぽど力が弱ってんのね‥‥どう? 私のところに来てみない? 少しくらいなら力をわけてあげられるわよ」

そんじょそこらの細い川と違って、私の川は水も豊富だしね。

そう客は付け加えて、ハクの様子をうかがっている。



ハクはじっと客の顔を見据えた。

「‥‥もったいない、お話です」


じゃあ、と言葉を続けようとする客を制し、ハクは言葉を続けた。

「しかし‥‥私にはもったいなさすぎる、お話です」




その話を聞いて、自分はもっと心が揺らぐかと思っていた。

が、不思議と心は全くざわめかなかった。

まるで、凪いだ水面のように。


「‥‥‥お客様のお申し出は有り難いのですが‥‥他にも力を得る方法も幾つかありますし‥‥今ここを離れる訳にはいかないのです‥‥‥本当に、申し訳ないのですが‥‥」

心底、すまなさそうなハクの声色に、客は笑い声をあげた。

「そんなにすまながる事はないわよ。まぁ気が変わったらいつでもいらっしゃい。私の川は後100年以上は今の流れを保っていられそうだし」

「‥‥すみません」

「何、そんなにびくびくしてるのよ。同じ川の者どうしじゃないの。‥‥ま、それにあんた可愛い顔してるのもあるか。これが他のヤツだったら怒ってるところだけど」

物騒な事を言ってカラカラ笑う客に、ハクもようやく笑みを浮かべた。

気位は高いが、性格はそんなに悪くはない客で良かった。

ありがとうございます、と礼を言いつつ、ハクは深々と頭を下げた。



ふと、逢いたい、と思う。

仕事中にも思う事はあったが、今日は、特にその気持ちが強い。


千尋に、逢いたい。






客の気が済むまで相手をした後、ハクは部屋を辞してそのまま湯殿のほうへと向かった。

今はたぶん奥の浴槽の掃除をしている筈。

と思って顔をのぞかせると、そこに千尋の姿はなかった。

リンがゴシゴシと浴槽を擦っているのが見える。

「リン」

声をかけると、リンは振り返り――――「え?」という顔をした。

「おい、千と一緒じゃねーのか?」

「いや、会わなかったが‥‥」

「おっかしぃなぁ。千は今日はあがり早ェから、ハクの様子を見に行くってもうだいぶ前にここ出ていったぜ?」

もしかしたらすれ違ったか?

ハクは首をひねりながら湯殿を出て、千尋が行きそうな場所を手当たり次第にのぞいてみた。

釜爺のところにも行ってみたが、いない。

従業員室に行ってもみたがやはりいない。

だんだん不安になってくる。

千尋は油屋の外は知らない、と言っても過言ではない。

油屋の面々や常連客は、千尋の存在を好意的に見てくれるようになって来たから危険もないだろうが‥‥‥。

もし外に出ていたら。

嫌な予感を振り切るようにして、ハクは歩き出した。