すれ違い
2
ハクは油屋と外をつなぐ橋のたもとまでやってきた。 もう終いに近いからか、ぽつぽつと帰っていく客の姿が目立つ。 「――――千」 ここで真実の名を出すのはまずいと思い、千の名を呼ぶ。 耳をすますと――――かすかに、千尋の声が聞こえたような気がした。 すすり泣くような、声。 「‥‥千尋?」 ハクは微かな音を頼りに橋を渡って、食堂街のほうへと足を向けた。 ハクが千尋を見つけたのは、灯籠のすぐ下の石段を下りて、少し脇に入ったところだった。 うずくまって、嗚咽している千尋。 あの時も、千尋はこうして泣いていた。 あの時はこの世界への不安と恐怖で、泣いていた千尋。 今どうして泣いているのかがハクには分からず、ハクはおずおずと千尋に呼びかけた。 「――――千尋‥‥‥」 びくっと千尋が顔をあげる。 頬は涙で濡れ、手で拭っても拭っても後から後から涙が出てくる。 「どうして‥‥泣いてるの?」 油屋でもそれなりの場所を見つけ 現実では両親が待ち こうして一緒にいられる事も出来たのに どうして千尋が泣く必要があるんだろう 千尋は慌てて目を手の甲で擦った。 「う、ううん‥‥ダイジョブ。ちょっと、目にゴミが‥‥」 「ごまかしてもだめ。私には千尋の事はわかるんだから」 ハクが近づくと、千尋は慌てて一歩下がった。 「大丈夫なんだから! ほんっとに、平気なの!!」 ハクの横をすり抜けて走っていこうとする千尋の腕を、すんでのところで捕まえる。 「誰かに、何か言われたのか? 言いなさい、千尋!」 「いいんだってばっ! 放してっ」 ぐぃぐぃと腕を引っ張る千尋のもう片方の腕もつかまえて、ハクは千尋を自分のほうに引き寄せた。 「どうして泣いてるのか言って。でないとこの腕は放さないから」 ハクが言葉をかける間も、千尋はぼとぼと涙をこぼしている。 まるでハクが千尋を泣かしているようだ。 逃げ場を失った千尋が、今度はきっとハクを睨んでくる。 どうして睨まれるのか分からず、ハクは一瞬たじろいだ。 「‥‥いっちゃえばいい‥‥‥ハクなんかどこへでもいっちゃえっ!! 川の神にでもなんでも戻っちゃえばいいっ‥‥‥ハクなんか‥‥ハクなんか‥‥‥ふぇ‥」 最後のほうは嗚咽になってしまって、聞こえなかった。 叫ぶだけ叫んで逃げようとする千尋の腕を、ハクはよりしっかりと握りしめた。 「千尋、千尋‥落ち着いて! 千尋!」 勢いがついてしまったのか、千尋はぶんぶんと首を横に振って、とにかくハクから逃げようとする。 きっと千尋は、あの客との話を聞いていたのだろう。 たぶん聞いたのは、あの客とのやりとりの途中まで。 ハクの言葉を最後まで聞かずに飛び出したに違いない。 「千尋!!!」 ハクが怒鳴ると、千尋はようやくびくっと体をすくめて動きを止めた。 「千尋‥‥‥私は行かないよ。さっきの客にはそう伝えて来た」 涙に濡れた瞳がキョトンとハクを見つめる。 「まだ当分弟子はやめられそうにないし‥‥それに千尋がここに来てくれているのに、千尋を置いて行く筈がないだろう?」 「でも‥‥」 「力を得る方法は他にもある。だから心配しないで」 千尋は力なく首をふるふると振った。 「‥‥私の為に、あきらめたの? それだったら‥‥そんな、無理しなくってもいい」 「千尋‥‥‥」 「ハクが川に戻りたがってるのは、分かってるから‥‥‥ごめんなさい、泣いたりしたら‥‥ハク気になってしょうがないよね‥‥」 無理に笑おうとしているのが、ハクにはつらかった。 「ちょっと、びっくりしただけだから‥‥‥だから」 気にしなくていいから、という言葉を発する前に、ハクが千尋の腕をぱっと放した。 え? と千尋が思う間もなく、次の瞬間には千尋はハクに抱きしめられていた。 強く 息が苦しいほどに 「は、ハクっ‥‥」 苦しい、と訴えてもハクは放してくれない。 たおやかな姿からは想像出来ないほどの力に、今更ながらハクが「男性」である事を意識して、千尋はかぁぁっと赤くなった。 「千尋の為だけじゃない」 ハクの声が耳元をかすめる。 「私が、千尋のそばにいたいから。千尋のそばを離れたくないから」 だから行かないんだ。 「千尋が嫌だと言っても‥‥離せない。この手は‥‥もう‥‥」 どのくらいそうしていただろうか。 千尋がおずおずとハクの背中に腕を回してくる。 ハクは少し腕をゆるめて、自分の胸の中にいる千尋を見つめた。 「‥‥ごめんね、ハク。もう‥‥言わないから。私も‥‥ハクにそばにいて欲しいから」 だから 「だから‥‥そばにいて。ずっと‥‥私のそばに‥」 千尋のその言葉にハクはよりいっそう腕に力をこめた。 二人で手をつないで橋を渡る。 油屋に戻れば、またこの手を離さないといけない。 けど。 悲しくはなかった。 少しの切なさはあったけども、辛くはない。 「‥‥じゃあ、また明日ね、ハク」 「うん‥‥また」 先にぱたぱたと潜り戸を抜けて部屋に戻っていく千尋を見送り、ハクは油屋を見上げた。 ――――いつか。 ――――いつかきっと、自分の力でこの油屋を出てやる。 ――――もう、失われた川の代わりは見つけたのだから。 ハクは、油屋の玄関をくぐった。 END |
キリ番作品用の没ったネタから掘り起こされたもの(笑)。痴話喧嘩がネタの筈が、あれぇ? なんでこんな甘々なんでしょ?(^^; やはりビンタとかそういうのが出ないと勢いはないっぽい? しかしうちんトコの千尋にハクをビンタする勇気はあるか!?(いや、ない(反語)) ま、まぁたまにはこういうのもって事で‥‥(そそくさと逃げ)。 |