時を越えて
その1
320000HIT キリ番作品
「千、千はいるか」 凛とした声が聞こえ、千尋はぎくりと身をすくめた。 この声は――――。 「……千ってホント色んな奴に好かれるよな。ハクとか、カオナシとか、今呼んでる人も入れて」 「言わないでリンさん……」 どうしよう、と悩んでいる間にもその声は聞こえて来る。 「おるのは分かっておるぞ。早ぅ出てこぬか」 声の調子は急かしている様子でもなくただ面白がっているようではある、が。 「早く行かないとどやされるぜ?」 彼女は湯屋にとって大事な顧客である。そのままにしておいたらあらぬ処が騒ぎ出すのは目に見えていた。 「はぁい、ただいま!」 そう怒鳴り返してから、千尋ははぁと溜息をついた。 「……頑張ってこい」 手をひらひらと振るリンの表情は悪戯っ子のようで、今の状態を楽しんでいるのは明らかだった。 「……何かあったら恨むよぉ、リンさん……」 千尋は大きく溜息をついて階下へと降りていった。 「ようやく来たか。妾は嫌われておるようじゃのぅ?」 ようやく姿を現した千尋を見て声の主――――木花咲耶姫命が声をあげて笑う。 湯屋にいる時はいつも着崩した格好なのだが、今日はまだきっちりとした着物姿のまま。 この女神にしては珍しい事である。 「い、いえ! そんな事はありません……そ、それで、何のご用でしょうか」 彼女が嫌いなのではなく苦手なだけである、とは言えず、千尋は慌てて頭を下げた。 微笑みを浮かべていた咲耶姫は、ふっと表情を引き締めた。 「用……という程でもないのじゃがな。気になる事があって呼んだのじゃ」 「気になる事?」 この女神がこういう顔をすることは滅多にない。 何か起こる前触れだろうか? そう思った途端、千尋の心にぶわっと不安が押し寄せて来た。 「ここらの磁場が歪んでおるのでな。……外界と繋がる時もこういう風に歪む事があるが、果たして今回のがそうなのかどうか。なにやら違うような気がせぬ事もなし」 「な、な、何が起こりそうなんですか……?」 「そこまではさすがの妾も分からんの。ただ備えあれば憂いなし、と申すではないか」 そう言う咲耶姫の表情がいつの間にかいつものような微笑みに彩られているのに気がついて、千尋ははっと我に返った。 「か……からかったんですか、咲耶様?」 「からかってはおらぬよ、磁場が歪んでおるのは本当じゃ。だが妾が琥珀に言っても信じてもらえぬでな」 「日頃の行いが悪いからです」 はっとその声に振り返ると、ハクが複雑な顔をして立っていた。 「ハク!」 「噂をすれば何とやら、じゃな」 くすくすと笑みを漏らす咲耶姫とは対照的に、ハクの表情はますます渋くなる。 「……磁場の歪みは感じ取っております。が、何故それを千に真っ先に伝えるのですか」 「千に言えば必ずそなたに言うであろ? そなたに直接言うよりも手っ取り早いと思うたまでじゃ」 だんだんと険悪になるハクの様子とますます上機嫌になる咲耶姫とを見比べ、千尋は「あのぅ」と声をかけた。 「私……仕事があるので…」 「ああ、そうだね」 ハクは表情を和らげ、頷いた。 「仕事に戻っていいよ、千」 「はい」 ぺこりとお辞儀をしてその場から立ち去ろうとした千尋を 「千」 咲耶姫が呼び止めた。 「はい?」 「!!」 辺りの景色が歪んで見えた。 「な…」 平衡感覚が保てなくなり、ぐらりと体が傾ぐ。 「千尋!!」 床に体がたたきつけられる寸前に誰かの腕が千尋の体を受け止めてくれた。 「目を閉じよ」 頭上から聞こえる声は女性のもの。 ―――とすればこの腕は。 「さ、咲耶さまっ!?」 慌てて起きあがろうとした千尋は、再び咲耶姫に引き戻されてしまった。 見れば周りの景色はもう色彩だけになっており、形を成すものは何もなくなってしまっていた。 「こ、これは一体……」 「目を閉じた方が良いぞ。そなたは空間移動には慣れておるまい」 慌てて目を閉じてから、千尋は疑問を咲耶姫に投げかけた。 「く、空間移動ですか!?」 「うむ。湯屋全体に起こった事か我らだけに起こった事かは分からぬが……」 すっ、と重力が一瞬消失し、それから足がしっかりと大地につく感触。 「もう目を開けて良いぞ」 そう言われて千尋はようやく目を開け―――自分の目の前に桜の花びらがあしらわれた着物の柄が見え、慌てて視線を背後へと巡らせた。 「…………えっと」 目の前の景色は一体なんだろう? 湯屋の周りは確かに古い日本家屋のような建物が多く、近代的なものは何一つなかった。 だがそれでも昭和初期のような佇まいのものが殆どで、ぎらぎらしたネオンがかえって古めかしさを醸し出していたものだった。 だが、目の前に見える景色はどう見てもそれよりも遙かに昔の佇まいの建物が並んでいた。 それが眼下に規則正しく並んでいて、まるで箱庭を見ているよう。 ―――確か、歴史の授業で見たことがある。 「……平安京…?」 「ほう、さすがに知っておったか」 咲耶姫は驚いた様子もなく眼下に広がる景色を見つめている。 「あれに見えるが平安宮。人間の天皇がおる処じゃな。この都の四隅に神社があるのがこの都を守る為の防衛線。あれが鬼神らをこの都によせつけぬのじゃよ」 「は、はぁ……」 「特に東北の方角は鬼門というてな、そこから鬼神たちは入り込む為に……」 「あ、あの咲耶様、そういう話はまた今度聞かせて頂くとして……」 このまま話を続けさせればきっとずっと語り続けるだろう。 千尋は慌てて口を挟んで何とか話を止めさせた。 「どうして、その平安京が、私たちの眼前にあるんでしょう?」 「考えればわかろうに。転移してきたからであろ?」 そんな事も分からないのか、といわんばかりの咲耶姫に千尋は「だから〜」と情けない声ではあるものの、反論を返した。 「だから、どうして来ちゃったんでしょう!? 私、確か、さっきまで湯屋にいましたよね。平成にいましたよねぇ!?」 「さぁな……先ほどまで磁場が歪んでおった事が影響しておるのは確かじゃろうが」 千尋はそっと咲耶姫から手を離し、辺りを改めて見回した。 「……ハクの姿が見えない」 「あの様子ならばきっと近くにおるのは確かじゃろう」 着物の裾を持ち上げるようにして咲耶姫が歩き出す。 「さ、咲耶さまっ!?」 「ここにいても仕方あるまい? 近くの神社にでも身を寄せる事にしようぞ」 「ええええ〜〜〜っ!?」 言い出したら絶対に聞かないのは咲耶姫の性格である事は千尋も身をもって知っていた。 「んもぉっ、私一人じゃ咲耶姫を押さえきれないよ〜〜」 愚痴愚痴言いつつもついて行かざるを得ない千尋であった。 「はぁ、はぁ……咲耶姫、何であんな動きづらそうな着物着てるのに足早いんだろっ……」 どうやら千尋達は山の上に出現してしまったらしく、下まで降りて行こうとしたが裸足である千尋は枝や石を踏まないように歩いている為になかなか追いつけない。 「あああ……いなくなっちゃった」 これがハクだったらきっと千尋を庇って待ってくれるのだろうが、当然咲耶姫にそういう気遣いはない。 「いたっ」 気をつけて歩いてはいたのだが、ついに何かを踏んでしまった。 「いったぁ……」 自分が踏んだものを拾い上げる。 それは何か葉の形をしたトップがあしらわれた銀のネックレスだった。 普通ならば「何でこんなものがここに?」と思うところだが、咲耶姫に置いていかれて不安も最高潮に高まっていた千尋にそれを疑問に思う余裕はない。 「んもう……!」 一瞬投げつけようかとも思ったが、すんでのところでそれを踏みとどまって懐へとしまいこむ。 疲れ切った千尋はその場に腰を下ろし、はぁっと溜息を漏らした。 「……どうしよう、これから」 ここでは咲耶姫以外知っている者はいない。 時を超えてしまったのだから歩いていけば自分の家、若しくは湯屋に戻れるという偶然も奇跡もない。 「………」 ずーん、と心が落ち込んでくる。 涙が出てきそうになって千尋は慌てて目を擦った。 「―――どうかしましたか?」 頭上から声が振って来て、千尋は慌てて上を向いた。 |