そして誰もいなくなった
その7
(――これは、一体……) 牙を突き立てようとした瞬間、亡霊達の姿がすっと消えてしまった。 気配も全く感じられない。 一体何がどうなったのか分からないが、とりあえずは戻ろうとハクはあの小部屋に向かって走っていた。 (―――胸騒ぎがする) 先ほどから竜としての勘が、何かを訴えている。 (やはり千尋を連れていった方が良かったか……? だがあれだけ苦戦する状況で千尋を連れていけば、確実に奴らの餌食になっただろうし……) そんな事を思いながら階段を駆け下りて。 小部屋に入ろうとした処でハクはぎょっと足を止めた。 血の臭いがする。 人間の血の臭い―――むせ返るような血の臭いに、血の引くような心地がした。 この世界で人間はただひとり。 千尋しかいない。 「千尋!」 ばたんと扉を開ける。 血まみれの小部屋のなかで、あの封印の文字が光り輝いていた。 そして。 「ご苦労だったね、ハク」 湯婆婆が部屋の中央に立っていた。 その腕には千尋が抱かれている。 千尋の右腕からは血の雫が流れ出し、血だまりを作っていた。 「―――っ……貴様…!」 湯婆婆の後ろに、影が見える。 ―――何故気がつかなかった……!? 「これで実体化出来そうだよ……お前とこの娘が封印を解いてくれたおかげだ」 湯婆婆は既に乗っ取られていたのだ――――それに気がつかなかった為に。 「後は契約書を破棄し、力を手に入れれば私は完全に復活出来る……礼を言うよ」 湯婆婆を乗っ取った者は千尋を手放そうとせず、自分のものだと言わんばかりに抱き寄せる。 (―――千尋の血肉を食らって完全に復活するつもりか…!) 穢れのない処女の血肉は魑魅魍魎のみならず神や精霊すらも欲しがるもの。 「させるものか……!!」 こんな処で彼女を失う訳にはいかない―――…!! 「―――っ…ぐ…」 突然湯婆婆が動きを止めた。 「お、のれ……邪魔をするのはっ……誰だ……!」 湯婆婆の手が何者かによって無理矢理開かれるように広げられ、千尋の体を手放す。 その体が床にたたきつけられる前にハクは千尋の体を抱き留めていた。 ―――お逃げ。私の処まで来なさい。 声にならない声が響いた。 「………!!」 その声に頷き、ハクは千尋の体を抱え上げた。 そのまま小部屋を飛び出し階段を上っていく。 「おのれ……!!」 何者かの呪縛から逃れたらしい湯婆婆が追ってくる気配がする。 「その娘を渡す訳にはいかぬ……!」 (―――後もうちょっと…!) 階段を上りきったところでハクは竜へと姿を変え、千尋を背に乗せると近くの窓を突き破って外へと飛び出した。 遠ざかっていく湯屋を首をもたげ、ちらりと振り返る。 ―――”それ”が追ってくる様子はなかった。 暫し空を飛び―――見慣れた森と、その向こうにある家が見えてくる。 その家の前に立つ人影にハクは見覚えがあった。 ハクの姿に気がついたのだろう、手を振ってくれている。 彼女ならば千尋を何とか助ける事が出来るだろう。 (―――彼女なら、今回の事もある程度分かるはずだ……) そんな確信があった。 ぐんぐん高度を落とすに連れて、その人影がはっきりと見えてくる。 ―――その人影は、銭婆だった。 |