Amnesia
その2

37000HIT キリ番作品








階下が騒がしくなってきた。

布団のなかから顔をのぞかせると、外はとっくに真っ暗になっている。

千尋はもそもそと起き出して来た。

「‥‥今何時くらいだろ」

おなかすいた。

よく考えたら目が覚めてからなにも口にしていない。

とりあえず何か口にしようと、千尋は腹掛け姿のまま部屋をそっと出た。




すでに店が始まる時間となっているからか、階下はごった返していた。

こそっとのぞき込むが千尋に気づく暇な者はいない。

ウロウロしていたら怒られそうな雰囲気すら漂っている。

「‥‥今行ったらまずいかな‥‥」

千尋は悩んだあげく、今日のところは引き返すことにした。

記憶を失っている自分がウロウロして迷惑をかけたら、それこそ後で大変なことになりそうな気がした。

とりあえずあきらめようとしたとたんにおなかが「ぐ~~~」と腹減ったと言い出す。

「‥‥‥ガマン、ガマン‥‥」

「千尋?」

その声に千尋はあたりをきょろきょろと見回した。

確か自分は「セン」という名と「ちひろ」という名と二つ持っているのだと聞いたことを思い出したのだ。

そして今。

自分を「ちひろ」と呼んだのは―――――

「‥‥あ」

黒髪を肩で切りそろえた少年が千尋をじっと見ている。

確か、ハクという名の少年だ。

周りの人間‥‥‥ここの経営者だという湯婆婆とその息子である坊以外は、皆彼のことを「ハク様」と呼んでいた。

唯一の例外はリンだが‥‥‥彼女の場合にはその性格からくるものだろうから、除外しておくとして。

「今、私を呼びました? えと‥‥ハク様?」

確認のつもりで言ったのに、千尋の言葉を聞いたハクは眉間にしわをよせた。

どうやら千尋の答えがお気に召さなかったらしい。

「あ、あのー‥‥」

「‥‥おなかがすいているだろうと思って、おにぎりをもってきた」

おにぎり、という名を聞いたとたんに、素直な千尋のおなかが「ぐぅ」と音をたてた。

「あ‥‥」

「‥‥すいていたようだね」

「‥‥‥ハイ」

恥ずかしくなってうつむいた千尋の手に、ハクは笹の葉で包んだおにぎりを持たせた。

「食べなさい。また後で様子を見にくるから、それまではおとなしく休んでいるように」

「はい、わかりました。‥‥あの、ありがとうございます、ハク様」

今度は感謝をこめて言ったのに、またもやハクの表情は不機嫌になっている。

ええええ、なんか私変なこと言ったかなぁ!?

オロオロする千尋を残し、ハクはすたすたと歩いていってしまった。

しばらくオロオロしていた千尋だが、いつまでもオロオロしていられないのでぴたりと立ち止まった。

「‥‥‥まぁいっか」

とりあえず今はおなかすいたし、ありがたく頂こう。

ほくほく顔で部屋に戻り、早速おにぎりにぱくつく千尋であった。





ハク様。

確かにハク様と呼べと命令したのは自分だが。

しかし記憶がある時の千尋の「ハク様」という呼び方には、愛情が見え隠れしていた。

たまに二人きりの時にはついつい「様」をつけるのを忘れてしまい、「ハク」と呼びかけてくることもある。

それをネタに千尋にいたずらするのも楽しみの一つだったが。

それが、あの「ハク様」という呼びかけには、いつも感じていた情が全くなかった。

赤の他人が言うような呼びかけ。

千尋のかわいらしい声には全く変わりはないのに。

それがものすごく腹がたった。

千尋が悪い訳ではないのはわかっていても、腹がたつ。

自分を忘れてしまった千尋に。

そんなことくらいで腹をたてている自分に。



そんなことを考えつつ歩いていくハクを、従業員はおろか客さえも遠巻きにして見つめ、近寄らないようにと逃げるために不自然な人だかりができる。

今日の油屋に、緊迫した雰囲気が漂うのも無理のない話であった。








仕事が終わると、今度は従業員たちの部屋がにぎわってくる。

寝ているのにも飽きた千尋の周りには、ちょっとした人だかりができていた。

「こういうのって何かがきっかけで思い出したりするって言うよね?」

「きっかけねぇ‥‥」

「いつもやっていたこととか。記憶はなくても体は覚えてるって言うしね」

口々にさざめくおねえさまたちを、千尋は不思議そうに見回している。

それを黙って聞いていたリンだったが、やがて口を開いた。

「じゃ、いつも千がやってたことってなんだ?」

その問いにおねえさまたちはしーんと黙り込んでしまった。

「‥‥いつもやってたこと‥‥って言ったら」

「‥‥掃除とか?」

「後はよく走ってたわよねぇ‥‥」

何となく見当違いの答えにリンが肩をすくめた。

「おいおい、いつもやっててもそれじゃー記憶を戻す手助けにはなんねーだろ‥‥」

「じゃあリンは何か思い当たるっての?」

そう話をふられて、今度はリンが押し黙ってしまった。

かすかにリンの頬が赤くなる。

どうやら返事に詰まって黙った訳ではなく、何か思い当たって黙り込んでしまったらしい。

「リン、何か思いついたのね?」

「いいなよ、千だって早く記憶取り戻したいでしょ?」

「えっ、あ、はい」

いきなり話を振られて千尋は「はいっ」と頷いた。

「ほら~~千だって聞きたがってるわよ!」

「ん~~~」

リンは千尋に視線を向けてニヤッと笑った。

「オレは別にいいんだけどさぁ‥‥千がどう思うか、だよなぁ‥‥」

「なになに? 千に都合の悪い話?」

リンのニヤニヤ笑いに千尋はただただきょとんとするばかり。

「わたし、別にかまわないから言ってくれていいよ?」

「そか? じゃあ‥‥」

実は言いたくて仕方なかったらしいリンは、周りの期待をあおるようにすーっと息を吸い込んで、声を潜めた。

「千、ハクとヤってみれば思い出すんじゃねぇかな。結構頻繁にしてンだしすぐに思い出すかも」

「あーなるほどねっ!!」

とっても納得したような顔で頷くおねえさまたちに比べ、ただ一人理解できていない娘が一人。

当の本人、千尋である。

「‥‥‥‥? やる? なにを?」




「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」




前の千尋ならば「もーなに言ってんの!!!」と真っ赤になること請け合いの会話にも、千尋はキョトンとした顔を向けるばかり。

いたいけな子供に変なことを教えているような、そんな気分にすらなってくる。

「‥‥あー‥‥。でもそれは最後の手段にしとくかな‥‥今の千に手を出したら犯罪っぽいよ‥‥」

「やってみる価値はあるかもしれないな」

この部屋に聞こえるはずのない男性の声に、皆ぎょっと振り返る。

そこに、話題の人ハクが立っていた。








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