翼はもうはばたかない
その2
確かなものなんて あるはずがない |
「‥‥‥‥!!」 とぼとぼと帰宅の途についていた千尋は、ぎょっと足を止めた。 自分の目の前に老人が立っている。 ―――――今の今まで、目の前に誰もいなかった筈なのに。 髪も髭も真っ白で、着物を着ている老人は、何処かの隠居にも見える。 少なくとも、千尋は初めて見る人だ。 この近くに住む老人ではないのだろう。 「荻野――――千尋さん、だね?」 70歳くらいに見えるその初老の男性は、そう千尋に語りかけてきた。 訊ねる口調ではなく―――千尋に確認をするようなその言葉。 どきん‥‥、と千尋の胸がはねた。 胸が痛い。 何か、嫌な予感がする。 「少し時間を貰えるじゃろうか」 「―――何のお話でしょう? 私‥あなたを知りませんが」 早く、帰ろう。 帰って、ハクに会おう。 そうしたらきっとこの痛みも消える筈だから。 「ハクという少年の事についての話なのじゃが‥‥あなたにとっても大事な話だと思うがね、千」 セン。 それは、今となってはハクと自分しか知らない筈の、もう一つの千尋の名。 千尋は老人を凝視するしか出来なかった。 「お話って‥‥なんでしょう。私‥家に帰らなきゃいけないんですけど」 人けのない森の奧まで歩いて来て、いい加減うんざりしていた千尋は声を荒立たせた。 「もう少しじゃよ」 何度目かのその言葉は、もう聞き飽きた。 もう帰る、と言い出そうとしていた千尋は、目の前が突然開けたのに驚いて口をつぐんだ。 目の前に、立派な社があった。 「こんなところに‥‥」 「人の目には見えぬ、わしの社でな」 目の前の老人の体が突然光り輝く。 「っ‥」 あまりのまぶしさに目を覆い――――その光がおさまったのに気づいて手をどける。 「―――――っ‥‥あなたはっ!」 千尋はその次の言葉が紡げなかった。 『‥‥その様子じゃと、わしの事を思いだしたようじゃの』 そこには、翁の面が浮かんでいた。 千尋があの湯屋で働いていた時に初めて世話をした河の神。 「あ、あなただったんですか‥‥!」 その巨体を横たえ蛇のように首をもたげて、河の神は笑い声を漏らした。 |