翼はもうはばたかない
その15



















すぎさった刻の記憶だけが 今でも鮮明によみがえる





















あれから数十年がすぎて。

ハクは、まるで人形のようだった。

微笑む事もなく、怒る事もなく、悲しむ事もなく、ただ淡々と仕事をこなすだけの人形。

触れれば壊れてしまいそうな脆さと、近づく者を切り裂いてしまいそうな鋭さは相変わらずだったが。

話しかけられても、事務的な事以外は一切口にしない。

湯婆婆にとっては都合の良い傀儡と化したハクを、釜爺や銭婆は酷く心配していた。






そんな矢先の事だった。






湯婆婆の使いの帰り道。

竜の姿で空を飛んでいたハクは、草原の中に何か不自然な色を見つけた。

何処までも続く緑色の中、ぽつんと見える茶色。

あれは――――人の頭だ。

普通ならば、「迷い人」と思うだけでただ通り過ぎただろう。

しかし。

ハクはすう‥‥と高度を下げて目の前に舞い降りた。

「‥‥!!」

目の前に白い竜が現れた事でびっくりしたのか、その人間はびくっと体を硬直させた。

そして――――ハクも違う意味で驚いていた。

こんな感情の乱れは――――千尋が死んだと聞いた時以来。

あれは確か―――もう数十年は前の話。

久しぶりの感情に、ハクは戸惑いと興奮を隠しきれなかった。

「‥‥ダレ?」


そこにいたのは――――千尋だった。










その少女は、驚くほど千尋に似ていた。

ハクの脳裏に残る千尋の姿とあまりに酷似していて、一瞬千尋が戻ってきてしまったのかと思ったほど。

あの時―――千尋は16歳くらいの少女だった。

目の前の少女も、それとそう変わりはないだろう。

その少女を湯屋近くまで連れて来て、ハクはそこで人間の姿に戻った。

「‥‥これから言う事を良く聞いて」

竜の姿から人間になっても、その少女は驚きもしなかった。

「ここに迷い込んでしまった者は、湯婆婆に仕事を貰わなくてはならない。何を言われてもただ「働きたい」とだけ言うのだよ」

「‥‥はい」

少女は緊張しているようではあったが、怯えた様子はなかった。

まるで、ハクがそう言うのを知っていたかのように頷いていく。

昔――――もう遙か昔に、こんな風に千尋を諭した事があった。

その時の千尋は怯えきっていて、完全に自分を頼り切っていたのだが。

「‥‥いいね? 絶対に帰りたいとか言ってはダメだよ」

「大丈夫。もう‥‥帰る場所はないもの」

少女の呟きに、ハクはえ‥と声を出した。

「‥‥ううん、こっちの事。ありがとう、ハク」

名乗ってもいないのに自分の名を呼ばれ、ハクは今度こそ驚いた。

「どうして‥‥私の名を」

「え? ‥‥そんな気がしただけなんだけど‥‥合ってた?」

悪戯っぽく微笑むその少女は、千尋そのものだった。

「‥‥そなた‥‥名は」

ハクは震える声で少女にそう訊ねた。





「私は、ちひろ。神原千裕(かんばらちひろ)よ」










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