翼はもうはばたかない
その19
遠い遠い 昔を 思い出してほしい |
何事もなく数日が過ぎた。 千裕もあんな事をされた後の割には、動じる様子もなく働いている。 ただ、ハクを見かけるとぺこりと挨拶して逃げるように去っていくが。 ハクもそれ以上千裕に何をするともなく、ただ見送るだけ。 それでも、千尋とよく似た面影の少女がいるという事は、ハクの精神を以前よりも安定させていた。 「千? 千、何処だ?」 リンの声が響く。 焦ったように千裕の名を呼ぶリンは、妙に落ち着きがない。 たまたま通りかかったハクは、その声に不審なものを感じて近寄っていった。 「どうした、リン」 「ハクか」 リンはあれほど嫌っていたハクの顔を見て、ホッと安堵したようだった。 「いや‥‥朝から千の姿が見えねぇんだ。もう仕事の時間なんだけど‥‥」 「姿が‥‥‥?」 「まさか外に出たって事はねぇと思うんだが‥‥」 ただ姿が見えないだけならリンもこんなに焦る事はないだろう。 「‥‥様子がおかしかったのか?」 ハクがそう訊ねるとリンは頷いた。 「ああ‥‥仕事中は元気なんだが、それ以外の時は鬱ぎ込んでいたからな‥‥心配してたんだ」 「‥‥‥分かった。私も捜す。リンは向こうを捜せ」 「わ‥‥分かった。頼むぞ!」 リンが慌てて走って行くのを見送って、ハクは反対方向へと走りだした。 宛がある訳ではない。 でももし。 もしも。 千裕が死んだら。 そこまで考えて、ハクは慌ててその考えを振り払った。 今はまず千裕を捜す方が先だ。 「千! 千裕!」 返る声はない。 湯屋内部で従業員が行きそうなところはあらかた捜した。 後捜していないとすれば―――― 「ハク様! ハクさまー!!」 青蛙の声がする。 「何事だ」 ハクが振り返ると、青蛙はハクの前でぜぃぜぃと息をついた。 「あの、千が最上階に向かうエレベータに乗るのを見たんですが、様子がおかしいので‥‥」 「‥‥湯婆婆様のところか!」 ハクは青蛙の言葉を待たずに最上階へと向かう為に歩き出した。 エレベータに乗らずとも、竜に変化すれば湯婆婆の部屋にはすぐに行ける。 竜になり、窓から湯婆婆の部屋へと飛び込む。 ――――湯婆婆はいない。この時間ならば外にいる筈だ。 ふと‥‥耳を澄ますと、隣の部屋から笑い声が聞こえてきた。 坊の部屋。 ハクは気配を隠そうともせず、坊の部屋へと歩いていった。 「ハクか? バーバはいないぞ?」 今や小学5年生くらいにまで成長した坊と、千裕とがいた。 千裕はハクに気がつくと表情を固くしてぺこりと会釈する。 「いえ‥‥湯婆婆様にではありません。千に用があったもので」 自分に用、と聞いて千裕が緊張したのがハクにも分かった。 「リンが捜していた。黙っていなくなるから心配していたぞ」 「リンさんが‥‥」 リンの用を言付かって来ただけと聞いて、千裕はホッと息をついた。 ――――それほど嫌われていたか、とハクは内心苦笑するしかなかった。 「じゃあ戻るね、坊」 「うん、また来て」 坊にバイバイと手を振って千裕は立ち上がった。 |