翼はもうはばたかない
その21



















今度こそ その手を 離しはしない






















闇に落ちていく千裕の姿を見つけた。

しかし、もうすぐ底が見えてくる。

早く拾い上げなければ――――この底には、魔物がいる。

水干を口でくわえて止め、そのまま自分の体に引き上げる。

「‥‥‥‥!!」

ハク自身も勢いがついてしまっていてスピードを落とせない。

尻尾と後ろ足をつかって何とか勢いを落とそうと壁を擦る。


――――ギャアアアア‥‥!!


久しぶりの獲物を感じ取って魔物たちが騒ぎ出した。

「‥‥や‥‥やぁっ、何これっ!!」

ハクの背で千裕が意識を取り戻し、悲鳴をあげる。

「何、何っ、何なのっ!」

パニックに陥っている千裕が落ちてしまわないように身をくねらせる。

ついに空間にまで落ちて来たハクと千裕を食らおうと、魔物が手をのばしてきた。

「――――ガァァァァッ‥!!」

ハクが咆吼すると、一瞬魔物たちがひるむ。

そのスキにハクは近くの穴へと飛び込んだ。

何処へ出るか分からない細い空間を滅茶苦茶に飛んで―――――


バリバリ! という音と共にハクは大きい空間へと飛び込んだ。


ばしゃああああんっ!

勢いがつきすぎてハクの背中から滑り落ちた千裕が、派手な水しぶきをあげる。

「‥‥せ、千っ!?」

いきなり天井から落ちてきた千裕に、周りの従業員たちが走り寄って来た。



ここは、湯殿のまっただ中。

ちょうど清掃中の湯殿の浴槽に、千裕は落ちてしまったのだった。









気づかれないように竜の姿から素早く人間に戻り、ハクは従業員たちをかきわけて千裕の元へと走った。

「千!」

浴槽から引き上げられた千裕は、全身びしょぬれでぐったりとしている。

ハクが千裕を抱きかかえると口に手を当てた。

微かだが、息が当たる。

どうやら放り出されたショックで気を失っただけらしい。

ハクはほっと安堵の息を漏らすと、周りの従業員に向き直った。

「千は私が連れて行く。皆は持ち場に戻れ」

ハクの言葉に従業員たちは三々五々戻っていく。

それを見送って、ハクは千裕を抱き上げた。



――――たとえ、千尋としての記憶がなくても‥‥私は‥‥。

ハクのそんな声は、気を失っている千裕に届く筈もなかった。













「‥‥ううん‥」

微かにうめく声。

そして―――ゆっくりと瞳があけられる。

黒い瞳に、自分が映る。

「気がついた?」

そう声をかけると、少女は不思議そうに自分を見た。

「‥‥ハク‥‥?」



ハクは千裕の額に乗せられた布を取ると、再び水に浸した。

冷たくなったその布をもう一度額に乗せると、千裕は大きく息をついた。

「痛いところはない?」

こくん、と言葉もなく頷く千裕は、思った以上にも丈夫なのかもしれない。

「‥‥ここは私の部屋だ。女部屋では賑やかすぎて休めないと思って連れて来ただけだから‥‥私はこれから仕事がある。暫く休んでいるといい」

ハクはそう言うと腰をあげた。

「‥‥ハク」

立ち去ろうと障子に手をかけたハクに、千裕が声をかける。

「‥‥こっちを‥向いて」

不審に思いつつもハクが千裕の方に向き直ると―――千裕は身を起こして来た。

「どうした?」

努めて平静を装い、ハクは千裕の背を支えた。

「‥‥さっきはごめんなさい」

先ほどの勢いは何処へやら、殊勝に謝ってくる千裕に、ハクは目を丸くした。

「え?」

「‥‥傷つけちゃったよね、ハクの事を」

「ああ‥‥」

ハクは苦笑した。

「私の方が悪いのだから、千裕が気にする事はない」

「ううん」

千裕はハクの服をぎゅっと握りしめた。

「私、隠してたの‥‥コハク」

「‥‥えっ‥」

その名に、ハクは硬直してしまった。

自分の真実の名を呼ばれ、動けなくなってしまう。






「私‥‥‥全部覚えていたの。ううん、正確には『全部覚えて生まれてきていた』のよ。荻野千尋だった時の記憶を‥‥全部」














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