翼はもうはばたかない
その23



















もうちょっと踏み込んでみたら きっと分かるのに

























「‥‥‥何か、ハクに言ったのか?」

リンの言葉に千裕は首を横に振った。

「ううん、何にも」

「‥‥ホントか? どうもハクの様子が変なんだけどな」

「‥‥‥‥‥」

千裕は床を擦る手に力を込めた。



あれから全くハクと千裕は話をしていなかった。

事務的な会話は交わすものの、それ以上はない。



「‥‥‥‥‥」

床を擦る手を止めて、ふう‥と溜息をつく。

「‥‥‥千?」

動かなくなってしまった千裕を心配して、リンが覗き込んだ。

「あ、ううん‥‥何でもない‥‥」

慌てて取り繕うようにゴシゴシと擦り始める。

そんな千裕を見下ろして、リンもつられたように溜息をもらした。













その日、湯屋は緊張に満ちていた。

今日来る神々の一人に鬼神がいるのだ。

不興を買えば従業員であろうと頭から食べられてしまう恐れもある。

「何かあったらすぐにハクにまわしな。あの鬼神クラスならハクで十分対処出来る筈だからね」

湯婆婆はそう言うとハクに視線を向けた。

「‥‥はい」

ハクは無表情に頷く。

千裕はそんなハクをちらっと盗み見た。

――――無表情に見えて、緊張しているのが分かる。

それも、「千尋」の記憶があるがゆえにわかること。

「ああ、千」

いきなり湯婆婆から呼ばれて、千裕は裏返った声で「はいっ!」と返事を返した。

「おまえは今日は部屋にいな。鬼神は人間が大好物だからね、ヘンにウロウロされて食欲をそそられても困る」

茶化す湯婆婆の言葉の裏に真剣な響きを感じて、千裕はごくっと息を呑んだ。

「‥‥はい」













女部屋で千裕はぼんやりとしていた。

下では賑やかな楽の音が聞こえてくる。

外に出てはいけないと言われているので、千裕は部屋で寝っ転がっていた。

暫くずっと働きづめだったから、こうしてぼんやりしているのは久しぶりだ。




カシャーン‥‥!


楽の音の中に皿が割れるような音が混じったような気がして、千裕はがばっと起きあがった。

下で、何か起こった?

畳に耳をつけてみるも、それ以上の事は分からない。

「‥‥何が起こったんだろう」

見に行ったらいけないとは思う。

けど。



何か起こったという事はハクに何かあるかもしれないということ。



「‥‥‥千尋」

千裕は自分の中で未だ息づいている少女の名を呼んだ。




私はあの人とは違う。

だけど、こんな時は千尋の感情が表に出てくる。

「‥‥私は、ハクなんて何とも想ってないの。出てこないでよ!」

どうなったって私には関係ない、とばかりに畳の上に転がる。

でも、そう押さえつけるほど千裕の中で感情がふくれあがっていく。




千尋はとてもハクが大好きで

最後の最後でハクの手を取れなかった事を、最期の瞬間まで悔やんでいた。

その後悔を私はずっと知っている。

だからどんな人なのか、とても興味があった。

小さかった頃から――――まだ見ぬあの人に恋していたから。






「‥‥恋?」

自分でそこまで考えて、千裕は身を起こした。



――――ああ、そうか。

「そうだったんだ‥‥」

私、ハクがずっと好きだったんだ。

でも、ハクはずっと千尋の事ばかり見ていて、私の事なんか見向きもしない。

だから私――――



千裕はがばっと起きあがった。

そのまま障子を開けて、部屋を飛び出して行く。


後には静寂が残るばかりだった。












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