翼はもうはばたかない
その24
自分に正直になれれば |
下は大騒動だった。 「千っ‥‥ばかっ! 湯婆婆から出てくんなって言われてただろっ!!」 リンがめざとく千裕を見つけて、慌てて陰に引きずり込む。 「ハクは?」 「今客を宥めてるトコだ。湯女の酌の仕方が悪いといきなり暴れ出してよ‥‥何でもハクが言いくるめて何とかおさまってるトコだが‥‥別の女をあてがえと無理難題を言いやがってるしな」 「そう‥‥」 「今行ったらまずい。千は上に戻ってろ」 リンが上へと続く階段へ千裕を押し戻そうとした時。 「‥‥人間がいるな、この近くに」 まだ遠くにいる筈なのにとどろくような声が聞こえて、千裕は身をすくめた。 「連れて来い。わしが可愛がってやろうぞ!」 轟くような声に足がすくむ。 「早く!」 リンが千裕の背中を押すが、恐怖で足がすくんで動けない。 「う、動けないよ‥‥どうしよう‥‥!」 泣きそうな気持ちで千裕がそう言うと、リンは舌打ちした。 「ったく‥‥しゃーねーな! おい、フナ、コイ! 千を頼む。オレが行って誤魔化してくっから!」 そう言うが早いか、リンは腕をまくっていた紐をほどくと従業員たちを押しのけて歩き始めた。 「リンっ‥‥」 鬼神の前に出ていったら、リンの方が餌食になってしまうかもしれない。 そんなの‥‥嫌だ。 嫌!! 「千!!」 頭で考えるよりも早く、千裕は従業員たちの前に飛び出していた。 「――――――!!」 一番驚いていたのは、ハクだったろう。 そして人に押される形で転がり出てしまった千裕は、ハクとリンの前にそびえ立つ巨体にただただ目を見張るだけ。 「やはりいたか‥‥人間の娘。しかも処女か」 千裕はぞくっ‥と背筋に走る悪寒を感じ思わず自分を抱きしめた。 「‥‥ショウキ様。この娘は従業員です。魔女と契約をした者ゆえ、手出しをされればあなた様とて無事ではすみますまい」 その鬼神(全身は赤く一本角の鬼であったが、千裕にそれを確認する余裕はなかった)は千裕の全身をなめ回すように見つめている。 ハクがすっ‥と千裕を隠すように体をずらした。 「別にとって食おうという訳ではない。だが、処女の生き血は寿命をのばすという言い伝えもある事だしのぅ」 「!」 きゅぅぅっ‥と胃が締め付けられるような緊張に、千裕は思わずハクの着物を握りしめてしまった。 その手もかたかたと震えてしまい、情けない事この上ない。 「‥‥大丈夫、千裕は後ろに下がっておいで」 鬼神から目を逸らさないようにしつつ、ハクが優しくそう諭してくる。 その声だけで緊張の半分は溶けてしまい、千裕はちょっと息をつく余裕さえ出てきた。 「申し上げた筈です。この娘は従業員だと」 一歩も譲らないハクに、客の表情がこわばった。 「従業員などどうでも良い! 暫く人間も食ろうておらぬし従業員の一人や二人欠けたところでかまいはしまい!」 いきなり態度を豹変させて鬼神が襲って来た。 「きゃあああ!」 「わぁあああ!!」 湯女や男衆達は我先にと逃げ出す。 その中 「やろっ‥‥千に手出しすんじゃねぇっ!!」 リンだけは果敢にも鬼神に飛びかかった。 「うるさい! 女狐ごときが!!」 腕に食らいついたリンを、鬼神は腕の一振りではじき飛ばした。 「きゃあ!!」 壁にたたき付けられ、そのままリンは動かない。 「リン‥さんっ‥」 千裕はそれまでの恐怖も忘れて、リンのそばへと駆け寄った。 「リンさんっ! リンさん!!」 打ち所が悪かったのか、いくら揺さぶっても意識が戻らない。 「この娘一人を食らえば後は要らぬ。その分料金を払うゆえに大目に見よ」 すっ‥と辺りが暗くなる。 振り返るのも怖くて、千裕はリンを抱きしめたまま硬直してしまった。 ――――食べられる!! 「これ以上のもめ事を起こすつもりならば、お客様とて容赦はいたしませんよ」 ハクの声が聞こえた。 そして ドォォォン!! 千裕はいきなり背後で起こった爆音にぎゅっとリンを抱きしめて身を縮めた。 「‥‥‥‥」 唐突の静寂。 千裕はおそるおそる後ろを振り返った。 体中からぷすぷすと煙を上げながら、鬼神が立ちつくしている。 いや、立ちつくしているのではない。 その体には水色の縄のようなものが巻き付いていて、動けないのだ。 「く‥‥貴様、従業員の分際で!」 ハクの術に捉えられて動けなくなっている鬼神は、それでもふりほどこうと精一杯もがいているが、殆ど効を奏していない。 「湯屋と従業員の安全を守るのも仕事のうちですので。不埒な真似を働くお客様には、それ相応の処置も覚悟して頂かねば」 ハクは涼しい顔のまま立って、鬼神を見上げている。 魔法か元々の術かは分からないが、ハクの力の方がこの鬼神よりも強いという事なのだろう。 「千、千っ。こっちに‥‥」 戻ってきたらしい湯女が、ぐったりしたリンを引きずって連れていく。 それについて行こうとして、千裕は鬼神とハクの方にもう一度視線を向けた。 鬼神の向こうに見えるハクは、目で「行け」と合図している。 千裕がここにいない方がハクにとっては動きやすい筈。 そう思ってはいずって(どうやら腰が抜けてしまったようで、どうしても立てなかった)行こうとする―――― 「‥‥逃がさぬ。処女の生き血を肉ごと食らえるなど、今のご時世では滅多にない事‥‥‥逃しはせぬ!」 そう叫んだ鬼神を縛り上げていた水の縄が、炎によって焼き切れる。 「炎火か!!」 ハクの術を炎で焼き切り、鬼神の腕が千裕に伸びてきた。 尖った爪が視界に入ってくる。 千裕は思わず目を閉じた。 自分に何かが覆い被さって来て "それ"越しに鈍い感触が伝わってくる 「‥‥‥ハクっ‥‥!?」 "それ"がハクだというのはすぐに分かった。 そして 背中を切り裂かれたにも関わらず、千裕の水干がべっとりと血で濡れるほどに、傷が重いのも。 「‥‥‥‥‥‥‥っっ‥!!」 悲鳴は喉の奧で凍り付いて、外には出なかった。 「ふん‥‥人間の小娘を庇うとは。仮にも神ともあろう者が‥‥あるまじき行為」 既に意識を失ってぐったりしているらしいハクを千裕はぎゅっと抱きしめた。 その瞬間 ハクが身を起こして、鬼神に向かって何か呪文を唱えた。 「‥‥‥!!」 鬼神の身が見る間に小さくなっていく。 あっと言う間に鬼神は小さな虫になってしまった。 「こ、これ‥‥」 「‥‥後は、湯婆婆に任せておけばいい‥‥」 千裕の腕の中でハクはそう呟くと、そのまま意識を失って倒れ込んだ。 「ハクっ‥‥ハク、しっかりしてっ!!」 千裕の声にも、もはやハクは反応しない。 涙をこぼしながらハクを揺さぶるしか、千裕には出来る事がなかった。 |