翼はもうはばたかない
その26
大切なものを 見失わない為に 私ができること |
「‥‥ち‥ひろ‥」 その声にはっと我に返る。 ハクがこちらを見ていた。 「ハク‥‥気がついた‥の?」 「ああ‥‥ここは‥‥?」 「ハクの部屋よ。まだ動かないで‥‥‥手当はしてあるけど、出血が酷かったから」 ハクはじょじょに思い出して来たらしく、はぁ‥と息をついた。 「‥‥ハク?」 「すまなかった。怖い思いをさせたね、千裕」 儚い微笑みを浮かべ、ハクは満足に動かない腕を動かして、千裕の髪を撫でた。 「ううん‥‥ごめんなさい。私が言いつけを守らなかったばかりに‥‥」 「千裕が無事ならそれでいい」 ハクはそう言うと再び目を閉じた。 「‥‥やはり体力が落ちているようだ。少し休むよ‥‥千裕も、仕事に戻りなさい‥‥」 ややすると、規則正しい寝息が聞こえてくる。 千裕はハクの布団をかけ直すと、まじまじとハクを見つめた。 血色は決して良くなってはいないが、さっきよりも息づかいはしっかりしている。 これならば大丈夫だろう。 千裕は優しく布団を叩くと、立ち上がった。 また目覚めた頃に様子を見に来よう。 いつまでもここで油を売っている訳にも行かない。 閉じられた障子がカタン‥と微かな音をたてた。 仕事も滞りなく終わった。 鬼神は結局湯婆婆によって丁重に帰されたらしい。 一時はどうなる事かと思ったが‥‥と安堵の息を漏らしつつ、千裕はハクの部屋をそっとのぞいた。 「!」 ハクはもう起きあがっていて、ちょうど着物を着終えたところだった。 「まだ起きちゃダメだよ。さっき出血が止まったばかりなんだよ?」 「大丈夫。痛みは止まった」 「そんな真っ青な顔で言ったって説得力ないよ」 「この顔色は元々だよ」 「とにかくっ! もう仕事は終わったんだから休めばいいんだよ!!」 むー、と千裕がハクを睨み付けている、と。 ハクが突然吹き出した。 「! 何で笑うのよ!!」 「ごめん‥‥いや、そんな風に心配されるのは久しぶりだと思って。‥‥‥悪くないね」 おとなしく休む事にするよ、とハクは独り言のように言うと、再び布団の中に戻った。 そんなハクを千裕はじっと見つめていた。 「‥‥? どうかした?」 あまりにもじっと見つめられるので居心地悪くなり、ハクはおずおずと訊ねた。 それでも千裕の視線は逸れない。 やがて、千裕は呟くように言葉を漏らした。 「‥‥‥もしかして、私もハクも、「千尋」に執着しすぎてたのかな」 「‥‥え」 千裕は枕元にちょこんと座って、ただハクを見つめている。 「リンさんに言われたの。昨日の私と今日の私が同じ私であるように、千尋も私も、同じじゃないかって」 ハクはもう一度身を起こして、千裕の目を覗き込んだ。 戸惑いと、迷いが見える。 ハクに言ってはいるが返事が欲しい訳ではなく、自分の中でも整理がつかないままただ言葉にしているだけ、なのだろう。 「他人だ‥‥と思いこもうとして、拒絶してばかりだったけど‥‥結局は私、過去に捕らわれていただけなのかな」 「‥‥‥‥‥」 いつか、銭婆にも同じ事を言われたのをハクは思いだしていた。 ―――――――あんたは、「今」を見ていないね ―――――――まだあんたは過去に生きている。過去を追っても、どちらも辛いだけだよ 「‥‥そうかもしれないね」 突然のハクの言葉に、千裕が首を傾げた。 「‥‥ハク?」 「私も千裕も、千尋の影を追っていた‥‥そうなのかもしれない。千裕は‥確かに千尋の生まれ変わりだ。別人じゃない‥‥だけどそのものでもない」 銭婆はきっと分かっていたのだろう。 「‥‥私は、昔を取り戻そうとしか考えていなかった。今のそなたを見ていなかったのだ。きっと‥‥やり直す事しか考えていなかったのだろう」 昔を取り戻す事は出来ない。 やり直す事も出来ない。 神であっても、魔女であっても、それが絶対の掟。誰も抗う事は出来ない。 「‥‥でも、作る事は‥‥出来るよね?」 千裕はさっきからずっと思っていた事を口にした。 「取り戻す事もやりなおす事も出来なくても、もう一度新たに作っていく事は‥‥出来るかな」 千裕からの提案に、ハクが問い直す。 「―――新たに?」 「うん‥‥これから、ゆっくりと知り合って行こう?」 まだ悩む事はあると思うけど、少し吹っ切れたような気がする。 千裕はそう言うと微笑みを浮かべた。 「だから、私ハクのそばにいるね」 私は「荻野千尋」だった。 それは疑いようのない事実。 そして千尋と少しずつ考え方も感じ方も違うのもまた真実。 だって、私は千尋のように生まれて育って来た訳ではないから。 だから、まず最初に認めて受け入れよう。 そこから始めなきゃいけなかったんだ、きっと。 |