翼はもうはばたかない
その29
今を大切に生きたい ただそれしか 出来ないから |
「迎えが来たね。さぁ、そろそろ帰る時間だよ、千裕」 銭婆に背を押されて、千裕は「はい」と頷きを返した。 思い悩んで飛び出していった、という割には彼女の表情が明るい。 銭婆に色々と話を聞いて貰う事で、少し楽になったのだろう。 「ごめんなさい、いきなり飛び出して来てしまって」 「いや‥‥私よりもリンに謝ったほうがいい。心配していたから」 「うん」 ハクが手を差し出すと、千裕はその手をきゅ‥と握りしめて来た。 その手が、微かに震えている。 しかしその事には触れず、ハクはそっとその手を強く握りしめた。 「さぁ、帰ろう」 竜となって空を飛ぶ。 あの時も、千尋を背に乗せて銭婆の家から湯屋までの道のりをたどった。 自分の真実の名を取り戻したあの時の事は、今でも忘れられない。 「‥‥ハク」 ハクの角を掴んだまま、千裕が身を乗り出してハクに話しかけてくる。 「‥‥色々と、おばあちゃんに話を聞いて貰ったの。私が、後一年くらいしか生きられないって事も、全部」 ハクはただ黙って千裕の言葉を聞いていた(竜になると話せなくなるので、黙って聞くしか出来なかったのだが)。 「‥‥おばあちゃんがね、言ったの。「今を大切にしなさい」って‥‥」 ――――今を、大切に。 いつか自分が銭婆に言われた言葉を、ハクは今更のように思いだしていた。 ――――おまえは「今」を見ていないね。 その警告を胸に、ようやく「今」を見つめられるようになったというのに、今度はその「今」を失わなければならない。 まるで、砂漠の砂を手ですくいあげても、指の間からこぼれ落ちて行くように。 「それにね」 千裕は、他には誰もいないのにまるで内緒話をするかのように、ハクの耳にそっと唇を寄せて囁いた。 「人は‥‥輪廻転生するものだって、言われたの。だからね‥‥また、必ず逢えるって」 必ず逢える――――そう分かっていても 千裕がいない間、自分はどうやって生きていけばいいのか。 また、あの孤独と向き合わなければならないのか。 「―――必ず、ハクに会いに来るから。絶対に‥あなたの事を忘れないから。だから」 千裕の細い腕が、そっとハクの鱗を撫でる。 「だから‥待っていて。必ず還るから」 それは、契約。 命を、魂をかけた誓い。 ――――必ず、還る。 「―――――ああ」 その約束を抱きしめるしか、今のハクには出来なかった。 |