翼はもうはばたかない
その36
呪縛を解き放ち もう一度逢いたい |
時間は、ゆっくりと確実に終焉へと向かっていく。 それに至るまでの時間の殆どを、ハクは千尋と共に過ごした。 湯婆婆から文句を言われようとも、従業員たちから白い目で見られようとも、ハクは千尋のそばにずっといた。 カオナシも分かっているのか、殆ど二人に近寄ろうともせず、ただじっと見守るだけ。 だからか、その時がやって来ても――――ハクは千尋の前で取り乱す事もなく、じっとその場にいた。 「‥‥ハク」 「‥‥ん?」 ハクは枕元に座って、千尋の髪をそっと撫でた。 「‥‥なに?」 ハクが問いなおすと、千尋は少し微笑んだ。 「‥‥次に会った時に、なんて声をかけたらいいと思う?」 自分が死ぬというのにそんな呑気な事を言う千尋に、ハクは苦笑した。 「うーん‥‥初めまして、になるんじゃないかな。初めて会う事になるんだし‥‥」 「それじゃダメだよ‥‥ぜんぜん、ロマンティックじゃないよ‥」 千尋は少し考えて、やがて顔を輝かせた。 「‥‥ただいまって、言うから‥‥ちゃんとハク返事、してね‥‥?」 記憶を失ってしまう千尋が今何を約束したとしても、それは次まで持っていく事が出来ない。 だけど気休めででも、千尋が満足するのならば、敢えて約束しよう。 ハクは優しく千尋の髪を撫でた。 「ああ、分かった‥‥‥分かったから、少しお休み。‥‥あまり喋ると体に触るよ‥‥」 「うん‥‥」 千尋は目を閉じると、すぅ‥と寝息をたてはじめた。 ハクはそんな千尋を愛しそうに見守っていたが―――― 「ハク竜」 銭婆に話しかけられて、はっと振り返った。 「‥‥泣いているのかぃ、ハク竜‥‥」 「え‥‥」 ハクは自分の頬に手をあてて――――自分が泣いている事に気がついた。 「わ、私‥‥何時の間に‥‥」 銭婆は優しくハクの肩を叩くと、千尋の周りに魔法陣を描き始めた。 「銭婆‥‥‥」 「‥‥千尋の息が止まり始めている。急がなければ」 ハクはぎょっと千尋を振り返った。 千尋の周りに、死が忍び寄ってきているのが分かる。 「‥‥‥千尋っ‥!」 駆け寄ろうとして、ハクはぐっと踏みとどまった。 千尋が覚悟したのだ。 自分も覚悟を決めなければならない。 ――――また千尋と会う為には、これしかないのだから。 魂の浄化。 何も罪を犯していないのに、千尋の魂は呪縛されている。 その呪縛から解き放てるのは、縛り付けていた本人である自分だけ。 皮肉なものだ。 人間たちが最も崇高で気高い感情だという「愛」が、千尋を呪縛し続けていたのだから。 「‥‥千尋」 魔法陣に寝かされた千尋は、もう反応しない。 息も殆ど止まりかけている。 隣では、銭婆が詠唱をずっと続けている。 ハクは最後まで残っていた未練を断ち切るように、千尋から離れた。 「呪縛されし魂よ‥‥元在るべき道へと戻り、安らかに眠れ――――」 最後の呪文を言い終わった瞬間、魔法陣が光を放った。 光が千尋の体を包み込んで行くのを、声を上げそうになるのを抑えて、ハクはじっと見つめている やがて光は薄れていき、辺りに静寂が戻った。 千尋の体には何の変化もない。 しかし、ハクには分かった。 もう、自分の愛した少女は何処にもいないのだと。 ――――――本当に、自分は独りになったのだと。 「千尋‥‥‥‥‥」 その呼びかけに応える声は、もはや還らない。 |