桜の幻影
その








「……………………」

千尋は思うようにならない自分の体のなかで、悶々としていた。

すぐに戻るから、といったままハクは姿を現さない。

暫くしてやって来たおじいさんらしき人はどうやらハクと関係ある人らしかったが、今自分の体を動かしている精霊が全く意に介さないので、それ以上の接触もなかった。

今もそのおじいさんは桜の樹の根元に腰を下ろしたまま、こちらを見つめているだけである。

――――ハク……一体どうしたの? 早く帰って来て………。

千尋がそう念じた時。

ざぁぁっ……と風が舞い起こった。

「………おお、帰って来たか」

その声に、千尋の体がふっ…と上を向く。

竜が舞い降りる。

千尋は良く見知った姿。

舞い降りた竜は光に包まれて――――そのままヒトの姿をとった。

これもまた千尋は良く見知った姿。

その白い竜は、一人の青年へと姿を変えた。

「ハク。……その様子では、記憶をたどれたらしいな」

「はい」

ハクの髪はしっとりと水気を含んでいて、さっきまで水の中にいたのだと分かる。

くるっ…とハクが自分のほうに向いて、千尋はどき、と胸がはねたような気がした。

「……思いだした、よ」

自分の中にいる精霊が、何処か緊張しているような――――そんな感覚が千尋に伝わってくる。

「――――桜蘭(おうらん)」

桜蘭―――そう呼ばれたとたん、千尋は自分の中で精霊が声にならない叫びをあげたのを感じた。

「桜蘭。ようやく思いだした……私が川の主として、時々ヒトの姿をとっていた時に会った事があった」

あの記憶は自分自身。

川の主としての長い間の時――――川の主としては短いが、それでも数百年の時を経ている――――それが、ハクの記憶を風化させていた。

「川を失ったショックと、湯婆婆に名を取られ記憶を失ったことで、そこのお嬢さんに関する事以外を全て忘れてしまっていたのだろう。自らの名を思いだしたとしても、失われてしまった記憶を取り戻す事は難しい」

座っていたおじいさん――――翁がそう言うのを、千尋は自分の体の中で聞いていた。

「桜蘭。――――すまなかった。君が精霊に取り込まれていたなんて……」

ハクが千尋の―――精霊の手を握ろうとするのを、千尋の体はすっ…と避けた。

「桜蘭?」

「――――……ゆ……るさない……」

精霊――――桜蘭が、そんな言葉を発する。

「なに…?」

「――――ゆ…るし…はしな……い……」


――――頭が、いたい!

頭が痛いのではない。

しかし、千尋は「頭が痛い」と認識していた。

――――やだ…頭、いたいっ………!

「千尋!?」

そうして。

ハクの目の前から千尋の姿が消えた。

何の力の波動も感じなかった為に油断していたハクは、力の波動の軌跡を追うのに失敗した。

「くっ……何処に行った!?」

「焦るな……もとはあのお嬢さんの体じゃ。そこまで強い力を使う事は出来まい」

翁の言葉に少し落ち着きを取り戻すも、ハクはぎりっと唇をかみしめた。

「……千尋に何かあったら、許してはおかない……」













―――――どうしたの? ねぇ、あなた……桜蘭! どうしたの!?

千尋き必死に桜の精霊――桜蘭に呼びかけていた。

―――――ねぇ、返事をして! せっかく、ハクに会えたんでしょう!? どうして怒るの? どうして逃げるの!?

頭が痛い。

一体どうしたというのだろう。

―――――ねえ!


「…………忘れておったと、いうのか」

桜蘭の言葉が、千尋の声で聞こえてくる。

「……あの方も、わたしも」


―――――桜蘭。

「……これだけ、恋いこがれていたというに。何もかも、わたしは、忘れてしまっていた。顔も、声も」

桜蘭の哀しみが千尋にも伝わってくる。

「――――あの方が目の前にいたというに。わたしは、何もかも………」

―――――桜蘭。

千尋は意識の中でそっと桜蘭を抱きしめた――――そんなイメージを思い浮かべた。

―――――でもハクは思いだしてくれたよ。桜蘭の名を、ちゃんと思いだしてくれた。それに、桜蘭が桜を咲かせたのだって……近くにハクがいる事が、分かっていたからでしょう?



許せないのは、自分。

何もかも忘れてしまい、ただ恋いこがれる感情だけに囚われてしまっていた自分。



――――ハクに、会いたかったんだよね?

「あいたかった」

泣いている桜蘭の体を抱きしめる。

その想いは千尋には良く分かるから。

ほんの少しの胸の痛みとともに。


――――一度あった事は忘れない。ただ、思い出せないだけ。私にそう教えてくれた人がいたの。だから、桜蘭もハクも、思い出せたんだよ。


思い出せなかっただけ、なの。

私もそうだから。


千尋は桜蘭に、語りかけていた。

桜蘭からの返事が返らなくても、ただずっと。













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