神の花嫁
Sacrifice~
その3









千尋はどうやらハクの記憶に関してのみ、記憶を欠落させているらしい。

油屋での出来事はきちんと覚えているのだが、その記憶の中にハクはいない。

ハクとともに過ごした時間は、白く空白になっているのだ。

「千尋の記憶を取り戻すのが、アンタの試練だ。期限は一週間。その間に千尋の記憶がよみがえらなかったら‥‥当然、試練は失敗だからね」

湯婆婆はそういって千尋とハクをその場に残してどこかに行ってしまった。

湯婆婆がいなくなってしまっても――――ハクはずっとその場に立ちつくしていた。

記憶のない千尋は、落ち着きなくそわそわとしている。

「あのー‥‥」

おずおずと話しかける千尋の声に、ハクはぴくっと反応し千尋を見つめた。

「あのー‥‥私、何かいけない事‥‥しました?」

他人行儀な言い方も、今の千尋では仕方のないこと。

ハクの事を全く覚えていないのだから。

「いや‥‥千尋は、何も‥‥悪くはない」

「でも‥‥あなた、ずいぶんと辛そうだし‥‥さっきから聞いてたら、なんか私とっても関係あるようだし‥‥」

「‥‥‥‥‥‥‥」



記憶がなくとも、ただ千尋のそばにいられればいいと思っていた。

なのに

千尋がそばにいるのに

どうしてこんなに心がつらいのだろう。




そっ‥‥と。

千尋の指が、ハクのまなじりに触れる。

「え‥‥」

ハクが驚いたように声をあげると、千尋は慌てて指を引っ込めた。

「え、あ、ごめんなさいっ。その、あなた‥‥泣いてる気がして」

よほど落胆した顔をしていたのだろう。

千尋は心配そうにハクを見つめている。

記憶をなくしていても、そんなところは変わらない。

それが、少しだけハクの心をやわらげた。

「ありがとう‥‥私は大丈夫」

これは試練だ。

これから一週間、ずっとそばにいて――――千尋の記憶をよみがえらせよう。

そうすれば、きっと何もかもがひらけてくる。

「―――疲れただろう。休めるところまで案内する」

「あ、大丈夫。油屋の中はちゃんとわかってるから。湯婆婆にもちゃんと働けって言われてるし。だから私は大丈夫‥‥えと‥‥名前、なんて言うんでしたっけ‥?」

千尋の無邪気な様子が、ハクの心にちくりと針を刺す。

そう。

千尋は自分の事だけを忘れているのだ。

リンや釜爺や、湯婆婆、坊――――おそらく銭婆やカオナシたちの事も覚えているだろう。

叫びだしたい気持ちを抑え、ハクはゆっくりと告げた。

「―――私の名前は、ハクだ」






「よぉっ、千!! 久しぶりだなぁ! なんだ、顔つきは変わってねぇけど、背は結構でっかくなってるじゃねぇか」

「えへへ。リンさん、また暫くよろしくお願いします!」

従業員の服に身を包み、千尋はぺこっとお辞儀をした。

ハクの試練の間、千尋はここで働くのだ。

ハクの試練は他の従業員には知らされていないために、どうして千尋が来たのかリンには不思議でならない。

がそれは元々深く考えないリンのこと。

可愛い妹分でもある千尋の存在をすぐに受け入れた。

「しっかしおまえが来たならハクのヤツが喜んだろ。ここ一年はとみに思い詰めてる様子だったからなぁ」

ハクの名に、千尋は不思議そうな顔をした。

「ハク‥‥って、あ、さっき私を連れてきてくれた黒髪の人?」

まるで他人行儀な言い方にリンのほうが呆気にとられている。

「お、おい‥‥おまえ、ハクだぞ? おまえ、ハクの事あんなに気にしてたじゃねぇか。オレぁてっきり、ハクとは両思いとばっかり‥‥」

「えええ!? わ、私が!? 違うよぉ。あんな、かっこいい人が私を好きになるはずないじゃないぃ。それに、私、あの人とは今日初めて会ったんだよ?」

「初めて‥って‥‥千‥‥おまえ、ハクの事忘れちまってるのか?」

「リン!!」

今話題にあがっていたその人からの声に、リンはびくっと身をすくめた。

「無駄話をするな。おまえは千をつれて蓬(よもぎ)湯に行け。もたもたするな」

ハクはいつもの無表情でリンに命令を下すと、自分の持ち場へと戻っていく。

「おいっ、ハク!! あ、千は先にいってろ、蓬湯だぞ!!」

リンは千尋の異常を問いただすべく、ハクを追いかけた。

「あ、リンさーん!!」

千尋の声は、疾走するリンには届かなかった。






「ハク、待てよ!!」

長い廊下の真ん中でリンはハクを捕まえ、その細い肩をぐっとつかんで振り向かせた。

「――――早く、持ち場に行けと言わなかったか?」

ハクの表情は変わらない。

が、その表情がいつものとは違う事にリンは気がついた。

苦しそうな、見ているものが辛くなるような表情。

千尋がそばにいるってのに、何でそんな顔してるんだ。

聞き出さなければ、すっきりしない。

「おまえ、千の様子がおかしい理由知ってんだろ。言えよ」

千尋の事を出した瞬間、はっきりとハクの表情が変わった。

「千、おまえの事すっぱり忘れちまってるじゃねぇか。あんなに気にしてた千がきれいに忘れるなんて、絶対になんかあったに決まってる」

「‥‥‥‥おまえには関係ない」

絞り出すような声に、リンの大声が被さる。

「関係ねぇこたねーだろ!!! オレは千の姉貴分だ。オレぁ千には幸せになってもらいてぇんだよ! それにゃおまえが関係あんだから、気にするのはとーぜんだろがっ!!!」

その声に押されるように、ハクが後ずさる。

その仕草は、まるで小さい子供が怯えているようで――――リンは驚きつつ、声のトーンを落とした。

「‥‥事と次第によっちゃ、オレも協力出来るかもしれねぇだろ。話してみろよ」

リンが頼りになるかどうかはわからなかったが、話す事で少しでもいいから楽になりたい。

そんな気持ちがあったのも確かだった。

それに、リンは千尋とも仲がいい。

「――――わかった」


ハクはリンを物陰に呼ぶと、湯婆婆からの試練をリンにすべて話して聞かせたのだった。




すべてを聞いたリンは、う――――んと深くうなった。

「湯婆婆の考えそうなこったな‥‥ったく、あのババア底意地悪ィったら」

ぽりぽりと頭をかいていたリンだったが、やがてハクの背中をぽんと叩いた。

「とにかく! 千の記憶が戻りそうなアプローチを色々してみるぜ。おまえも暇さえあったら千のトコに顔だしするんだな。どっちにしても顔は売っとかなきゃ、思い出せるモンも思い出せねぇぜ」

「ああ‥‥そうする」

「じゃ、オレは湯殿に行ってくるわ。またな!」

ばたばたと走っていくリンを見送り、ハクは大きく溜息をついた。

リンの協力で事態が好転するとは思っていなかった。

しかし、何もせずにただじっとしているよりも、使える手は使ったほうがいい。

ハクに許された時間は、一週間しかないのだから。




持ち場に戻ろうときびすを返したハクは、ぎくっと足を止めた。

「――――ゆ、湯婆婆‥さま?」

そこには、湯婆婆が立っていた。