神の花嫁
Sacrifice〜
その4









「もうあがりにしよう、千」

「はーい」

リンの声に汗を拭って、千尋は返事を返した。

「ふう、お疲れ、千」

「リンさんもお疲れさま」

こうしてみていると、千尋は何ら変わりがないように見える。

「さ、まずいメシでも食うかー」

「もー、リンさんたら」

賑やかにさざめきあう二人だったが、リンはふと神妙な顔つきになって千尋に視線を向けた。

「千、ホントにハクの事全然思い出せないのか?」

千尋は困惑した表情になる。

「うん‥‥全然。ホントに、私知り合いだったの?」

「だったの? って‥‥おまえの口からそんな言葉が出てくるなんて、オレぁ未だにしんじられねぇよ」

リンの言葉に、千尋はうーんと記憶を探ってみる。

しかし、いくら記憶を探しても、ハクの面影は見えない。

ただ気になるのは、ところどころにある白い空白。

もしかしたら――――この空白が、ハクがいたはずの記憶なんだろうか?


もしそうなら

どうして私は、あの人を忘れてしまったんだろう

――――あの人の事を考えたら、胸が苦しくなる

私を見るその瞳が辛そうなのを見ると、悲しくなってくる

あの人が悲しそうなのを見ると、何とかしてあげたいって思う



「――――ねぇ、リンさん‥‥」

「んー?」

「私、どうすればいいのかな。何か、出来る事ってないのかな」

このまま、何もせずにいていいんだろうか。

何か、取り返しのつかない事になるような気がする。

私に出来る事が、きっとあるはずだ!

「私に出来る事‥‥‥まだわからないけど、きっとある筈だと思うの」

何か決心を固めたような千尋の顔に、リンはどんと胸を叩いた。

「オレも手伝ってやるよ。オレにとっちゃハクはまぁどうでもいいんだが、千にゃ幸せになってもらいてぇしな」

「あ、ありがとう‥‥リンさん‥‥」

目が潤んでくる千尋の肩を叩いて、リンは笑った。

「いいってことよ! まぁ‥‥とりあえずは、千。おまえハクのトコにいってこい」

「‥‥え?」

いきなり話がとんで、千尋は目をぱちくりさせた。

「思い出すにしても、まずは本人に会って色々話をしなきゃはじまんねぇだろ。ほらいったいった!!」

「あ、え、ちょっと‥‥」

リンに背中を押されて廊下を歩くうち、あっというまにハクの部屋の前についた。

「じゃな。よく二人で話し合えよ?」

「あ、ちょっと、リンさんっっ!!」

千尋の声にも振り返らず、リンは行ってしまった。

後には途方にくれる千尋が残るばかり――――――





いつまでも途方にくれてもいられない。

「――――あ、の。ハク‥‥さん?」

おずおずと声をかけてみる。

返事は返らない。

「‥‥‥‥ハク?」

そっと扉に手をかけると、すんなりとあいた。

「いるのかな‥‥」

独り言を言いつつあけると、中は暗かった。

あれ? と思ってのぞきこむと――――人の気配が微かに感じられた。

真っ暗な中、目を凝らすと――――机の上に突っ伏しているハクの姿が闇の中に浮かんで見えた。

「寝てるのかな‥‥‥」

千尋は「おじゃましまーす」と一応声をかけてから、部屋の中に入った。

そーっとのぞき込む。

腕の上に頭を乗せて目を閉じているハクは、確かに眠っているようだった。

――――疲れてるみたい‥‥。

このままだと風邪ひいちゃうかも。

そう思った千尋はキョロキョロとあたりを見回して、ふすまをあけると中から毛布を引っ張り出した。

「これ、かけとけば大丈夫だよね」

独り言をぶつぶつ言いつつ――――許可もなく立ち入った事への言い訳でもあったりする――――そっとハクに毛布をかける。

よほど疲れ切っているのか、毛布をかけてもハクは目覚める様子がなかった。

――――明日にしとこ。

起こすのも悪いと思い、そっとハクの部屋から出る。

「‥‥おやすみなさい‥‥」

聞こえていないとわかっていても、一応声をかける。

そして千尋はそっと扉をしめた。








再び暗闇に閉ざされる。

ハクは目を開けた。

千尋がかけてくれた毛布を自分に引き寄せる。



「――――千尋‥‥‥」

苦しそうな、声。

「‥‥ちひろっ‥‥」

すがるような、切ない声。

「‥‥私は‥‥どうすれば‥‥‥」

ハクの問いに、答える声はなかった。