神の花嫁
〜Sacrifice〜
その5
「う――――ん」 青く晴れ渡った空。 従業員部屋のベランダに座り、千尋は大きくのびをした。 ここから見る眺めは絶景だ。 雨が降っていないためにまだ乾いた大地が一面に広がっているが、それでも地平線が霞んで見えている。 雨が降ればこの地平線は水平線に変わる。 「雨くらい降れば海だって出来るさ」とリンはこともなげに言ったが、やはり千尋には不思議で仕方なかった。 「ほら、千」 リンが差し出したのは果物。 「ありがと。これ、どうしたの?」 「お裾分け」 林檎にも似た果物にそのままかぶりつくリンを横目に、千尋もかじりついた。 甘酸っぱい味が口の中に広がる。 その味をかみしめていると――――リンが話しかけてきた。 「で、昨日の首尾はどーだったよ」 ハクの部屋に行った後の事を聞いているのだ。 千尋は苦笑して首を横に振った。 「ハクね、寝てたからお話しなかったの」 「寝てたぁ? 珍しい事もあるもんだな」 リンはあっという間に果物を芯以外すべて平らげると千尋に詰め寄った。 「でもよ、一週間っていう期限つきなんだぜ? あと6日。あんまり悠長にしてたらまずいんじゃねぇか?」 そう。 このハクの試練とやらには期限がある。 後6日たっても自分の記憶が戻らなければ、ハクの試練は失敗してしまうのだ。 「そうだね‥‥これ食べたら、ちょっと行ってくる。仕事まではまだ間があるよね?」 「ああ‥‥‥早くしとけよ。父役とかに見つかったらうるせぇからな」 「うん!」 急いで食べ終わると、千尋はぱたぱたと慌ただしく従業員室を出ていった。 ハクの部屋をのぞき込む。 今度は、ハクの姿はなかった。 「もうお仕事かな‥‥」 「ハク様に何用じゃ」 後ろから話しかけられて千尋はひゃぁ! と飛び上がった。 「ハク様に何用じゃと聞いておる」 父役がふんぞり返って千尋を見ている。 「あ、えと‥‥ち、ちょっとお話したい事があって‥‥」 「ハク様はさきほど出かけられた。明日にならんと帰らんぞ」 千尋が大声をあげてしまったのは言うまでもない。 その夜、千尋はぶつぶつと文句を言いながら働いていた。 「なによっ、記憶が必要だからって、頑張って思い出そうとしてるのにっ、なんか、私のこと、避けてたりしないかしらっ」 怒りもこめつつゴシゴシとたわしで擦っているので、床はぴかぴかだ。 千尋の怒りを受けた湯殿はぴかぴか。 一仕事終えて、千尋はふうと額の汗を拭った。 「さて、と。もうそろそろお客様、来るかなぁ」 と立ち上がった瞬間。 一瞬、目の前が真っ暗になった。 「おい‥‥大丈夫か?」 がくがくと揺さぶられてはっと視点が戻る。 リンが千尋を支えてくれていた。 「おまえ、あのまま倒れてたら頭打って流血騒ぎになってたぞ?」 「あ、ありがと‥‥」 「どした。貧血か? 顔色は‥‥そんなに悪くねぇようだけど」 違う――――ような気もする。 しかし自分でもわからない事をリンに説明出来ないと思い、千尋は曖昧に頷いた。 「そんなところだと思う」 「客が来るから早く用意しろよ。調子悪いからってモタモタしてたらまた湯婆婆にどやされるぜ」 「うん、大丈夫!」 ―――さっきの、何だったんだろう? そう思いつつもリンの呼び声に千尋は頭を振って、今の出来事をとりあえず頭の片隅に追いやる事にしたのだった。 仕事も終わり、お気に入りとなったベランダに座って、千尋は月を見上げていた。 空が――――遠い。 一週間後。 もし、記憶が戻らなかったから、私はもう現実世界に戻ってるのかな。 わからない。 ハクは、私の記憶を取り戻すための手がかりを探しにいってたりするのかな。 でも、そうだとしても私に一言言ってくれてもいいじゃない。 ハクの試練に必要だとしても、”私の記憶”なんだから。 私だって、このままは嫌。 このまま――――忘れてるままなんて、嫌だ。 きっと、ハクは私にとって大切な人だったんだ。 記憶はないけど、心が覚えてる。 ――――忘れちゃだめだって、警告を発してる。 何か手助けは出来ないかな。 何か少しでも、覚えてる事はないかな。 だって――――あんな顔、もう見たくないもの‥‥‥。 千尋はベランダの手すりに額をこつんと押し当てた。 覚えてなかったから仕方ない でも あんな言葉、言うんじゃなかった 「あなたは、誰ですか?」 その言葉を言ってしまった時の、ハクの表情は―――――― 自己嫌悪に陥って、手すりに頭をごんごんとぶつける。 「‥‥‥‥絶対に、取り戻すんだ」 言霊にかけて、誓うから。 私に出来る事なら、何でもするからね。 だから だから早く帰ってきて 記憶はなくても話したい事、いっぱいあるから |