神の花嫁
Sacrifice〜
その7










ハクは戻って来ない。

坊と言い争いをした日も。

その次の日も。

ハクは姿を見せなかった。

坊もあれから姿を見せない。

千尋は、ただおきて仕事をしてまた寝るという生活を繰り返していた。

時々立ちくらみがする以外、全く何の変哲もない生活の繰り返し。

さすがの千尋も、いい加減苛々してくる。




自分の事なのに全く立ち入れないという不満と

もしかしたらハクが何か危ない事をしているんではないだろうかという不安

いくら探っても全く思い出せない記憶

期限の日のこと

坊の意味深な行動と言葉。

時々来る発作のような立ちくらみ。体調不良。

色んな事で頭がぐちゃぐちゃになって、うまくまとまらない



――――ハクさえ帰ってくれば、こんなの、すぐになおっちゃうのに!!





だがリンは、そんな千尋の様子を見て何故か安堵しているようだった。

「千、ハクの事そんなに気になるのか?」

「え?」

廊下をウロウロと熊のように行ったり来たりしている千尋を見て、リンが笑い声をあげた。

「まるで熊みてぇだぞ」

「だって‥‥」

千尋はぷぅと頬を膨らませて、手すりに腰掛けた。

そんな千尋を寝そべって見上げながら、リンはまだ笑っている。

「今までもふっと姿を消して2、3日帰ってこなかった事はあるからなヤツは。心配するこたねぇよ。おまえの記憶を取り戻す手がかりでも探しに行ってんだろ」

「‥‥だとは思うけど‥‥でも‥‥」

「それよりよ、千‥‥‥おまえ、やっぱハクの事好きなんだな」

単刀直入に言われ、千尋の顔がかぁぁっと赤くなる。

「え、だ、だって‥‥」

「記憶はなくっても、そういうトコで繋がってるもんなんだなぁ‥‥ちょっと安心した」

あんなヤツの何処がいいのかオレにはわかんないけどねぇ、と付け足して、リンはにまにまと笑った。

からかい半分、慰め半分といったところか。

リンの心遣いは嬉しかった――――が、やはり気恥ずかしい。

「も、もう、リンさんたらっ!!」

がばっと立ち上がった千尋は――――――フッと目の前が暗くなる感触に、ぎょっとした。

重力が、消失する。

今一瞬、自分が何処に立っているのかがわからなくなる。




「――――――センッ!!!」



リンの声にはっと我に返る。

千尋はリンに抱き留められていた。

「―――――り、リン‥さん‥‥?」

「お、まえ‥‥気をつけろよっ!! 手すりから落ちるトコだったじゃねぇか!!」

驚きと安堵と怒りとで目を潤ませているリンに、千尋はリンが支えてくれなかったら自分が真っ逆様に落ちていたであろう事に気がついた。

「ごめん‥‥気をつけるね」

「おまえ、真っ青だぞ‥‥どうした? 調子でも悪いのか?」

「ううん、そんなんじゃ‥‥‥」

とリンの腕から離れた千尋は、自分の足で立てずへなへなと崩れ落ちた。

力が入らない。

「‥‥‥え?」

何で、立てないの、私。

「‥‥‥千‥‥?」

必死に立とうとしてまた崩れ落ちる千尋の様子に、リンは眉をひそめた。

「おい‥‥立てないのか、千?」

「だ、大丈夫! ち、ちょっとびっくりして腰抜けちゃっただけだから!」

本当は違う。

全身がだるい。

まるで何キロも泳いだ後のような、疲労感がある。

それでもじっとしていると――――少しずつ体に力が戻ってくる。

ようやく立ち上がった千尋に、リンが心配そうに声をかけた。

「ごめんね、ありがと‥‥ちょっと驚いちゃって」

「そんならいいけど‥‥気をつけろよ」

「うん。ごめんね」

何か精のつくモンでも貰ってきてやるよ、とリンは部屋を出ていく。

それを千尋はぼんやりと見送っていた。

何の気なしに、外のほうへと視線を向ける――――――


「!!」

千尋はがばっと手すりに飛びついた。

青い空のかなたに見える白いもの

一瞬、雲かと思い目をこすってもう一度見つめる。

間違いない。

ハクだ。

あの白い竜は、ハクだ!!!


何も覚えていない筈なのに、千尋の感覚は瞬時にそうだと確信した。

帰ってきたんだ!!!

竜は油屋の表玄関のほうに向かっていく。

今から走れば、間に合う!!


まだ思うように動けない体に鞭打ち、千尋はどたどたと階段を下りていった。

途中、釜爺のところを通った時に呼びかけられたが「後で!」とススワタリたちを蹴散らして走っていく。



橋のたもとまで来ると、ちょうどハクが人間の姿に戻り橋を渡ろうとしているところだった。

「ハク!!」

千尋が大声で呼びかけると、ハクは視線を向け―――――遠目から見てもハッキリと分かるほどに顔色を変えた。

え? と思う間もなく、ハクは千尋を無視して前を通り過ぎていく。

思ってもみなかった行動に、千尋は唖然として立ちつくしていた。

が。

「ち‥‥ちょっと!?」

どうして私が無視されるのっ?

ハクの今抱えている問題は、私に大きく関わってるんじゃない!!

なんで私を避けるのっ!?

とりあえずハクが無事だった事で不安が解消された為に、いきなり今までの苛々が爆発したらしい。

千尋はばたばたとハクの後を追い、何とか玄関につく前にハクの前に回り込んだ。

「どうして無視するの!!」

千尋に阻まれ、ハクは歩みを止めた。

その視線に、千尋は身をすくめた。

――――こわい。

そう思った。

じっと見つめられるその瞳を、初めて怖いと思った。

きれいすぎる瞳が、それ以上踏み込むなと千尋に警告を発しているようだ。

「――――私は忙しい。用があるならさっさと言え」

冷たい言葉。

湯婆婆の部屋で見たハクとは、まるで別人のよう。

千尋は、ただ黙って首を横に振るしか出来なかった。

「‥‥用がないなら呼び止めるな」

玄関に入っていくハクを見送り、千尋は立ちつくしていた。

優しかったハクは、夢だったんだろうか。

もしかしてこっちが本物なんだろうか?

――――頭がぐちゃぐちゃで、わかんない。