神の花嫁
Sacrifice〜
その8











「こんなとこにいたのか千」

部屋にいないから探したぜ――――と声をかけて来たリンは、千尋の様子がおかしいのに気づいて千尋をのぞき込んだ。

「お、おい千‥‥‥どうしたんだ?」

千尋の頬を、涙が後から後から伝っている。

「おい、千!」

何度か呼びかけて、ようやくリンの存在に気がついた千尋は――――取り繕うように笑った。

「ぁ‥‥え、なに?」

「何で泣いてんだよ、おまえ」

「え、泣いてなんか私‥‥‥泣いて‥‥‥」

頬に触れて、そこに伝うものに驚き、千尋は声をあげた。

「わたし‥‥泣いてたの? なんで‥‥」

リンは千尋が泣いたところを一度も見た事がなかった。

いつも頑張っている千尋が、声もたてず涙を流している理由としては――――ただ一つしか考えられなかった。

「‥‥ハクか? なんか言われたか?」

千尋はぶんぶんと首がちぎれるほどに横に振った。

「違うの。違うから‥‥‥」

千尋がここまで否定するのならば、リンとしてはそれを信じるしかない。

「‥‥そんならいいけどよ‥‥。もうすぐ準備に入るぞ。急げよ」

「う、うん‥‥」

千尋は涙を拭うと、走り出したリンの後を追った。





ごしごしと床をこすりながら、わき上がってくる涙を拭う。

湯気があたりに立ちこめているから、涙を隠すにはちょうどいい。

泣いていても誰も気がつく者はない。



床をこすっていた千尋は、目の前に現れた足に気がついて視線を上に向けた。

「―――――‥‥!」

ハクが立っている。

さっきのハクの態度を思い出して、千尋は身を硬直させた。

「‥‥な‥‥にか、ご用‥ですか?」

ようやく、それだけを絞りだして――――千尋はきっとハクを見据えた。

何も言わず、ただ千尋を見つめるばかりのハクと

涙をこらえるためにハクを睨み付ける千尋と

妙に静かな空気が、あたりに満ちる。




「‥‥仕事を‥休まずに続けるように」

ハクはそれだけを言うときびすを返した。

「!」

出ていこうとするハクに、千尋はがばっと立ち上がってその服を掴んだ。

「どうして‥‥どうしてそんな態度、とるんですか‥‥!? わ、私‥何かしたの!?」



ぱんっ‥‥と乾いた音が鳴って

千尋は手をはたかれていた。



「‥‥‥私に触るな」




そのまま出ていくハクを見送ることが出来ず、千尋はそのままへなへなと崩れ落ちた。


手が痛い。

心はもっと痛い。

涙がとまらない。



記憶なんていらない。

こんな辛い思いをするんだったら、記憶だけじゃなくて、この気持ちまで全部忘れてしまいたかった。



でも

でも


「―――――ハクぅ‥‥」



それでも忘れられない


私の――――私の‥‥‥



千尋の意識は、そこでぷっつりととぎれた。