神の花嫁
〜Sacrifice〜
その12
そこには誰もいなかった。 少しだけあけられた窓から、そよそよと心地よい風が入ってくる。 外はいい天気のようで、青い色がふすまを通してここからでもわかる。 「‥‥‥ハク!?」 さっきまでのやりとりを思い出してハクの名を呼ぶが、返事は戻らなかった。 「‥‥ハク‥‥!!」 ハクを追いかけなきゃ。 千尋は起きあがると水干を手にとり、よろめきながら走り出した。 でも、どこに行けばいいのか。 ハクが行きそうなところなんて知らない。 もし知っていたとしても、おそらくハクは竜の姿になって向かっただろう。 空を飛べない千尋に追いかける術はない。 今ほど無力な自分を恨めしく思ったことはない。 ――――どうして、私には力がないのっ!? 力があれば、ハクを助けることができるかもしれないのに‥‥!!! 「―――――千尋」 はっ‥とその声に振り返る。 そこには、銭婆が立っていた。 いや、正確に言えば。 白い紙の式神と、そこから映し出される銭婆の透けた姿とがあった。 「おばあちゃんっ‥‥おばあちゃん‥‥!!」 「事情はわかってるよ。ハク竜が相談にやって来たからね‥‥その様子だと、ハク竜は最後の手段をとったようだね」 最後の手段。 ――――夢じゃなかったんだ。 ハクは、自分の命を絶つつもりだ。 自分の命と引き替えに、私を救うつもりなんだ。 そう理解したとたんに、涙があふれてきた。 「わたしっ‥‥わたし、ハクが死んでしまうなんていや! ハクを助けたいの‥‥お願い、おばあちゃん! 私に力をちょうだい‥‥ハクを助けられる力がほしいの!!」 銭婆はゆっくりと首を横に振った。 「私にもハク竜に科せられた宿命を変えることはできないんだよ。私だけじゃない‥‥湯婆婆にも無理な話なの」 「‥‥いや‥‥ハクが死んじゃうなんて‥‥」 立っていられなくなりそこに崩れ落ちた千尋の背を、銭婆はそっと撫でる仕草をした。 「千尋、あなたに出来ることを考えなさい。それがもしかしたらハク竜を助けるきっかけになるかもしれない」 「私に出来ること‥‥」 泣きじゃくっていた千尋はふっ‥‥と顔をあげた。 「私の記憶‥‥記憶を取り戻せば」 何の役にもたたないかもしれないけど。 でも今の千尋に出来そうなことといったらそれくらいしか思い浮かばなかった。 「私の記憶は湯婆婆が奪ったって言ってた! 湯婆婆のおばあちゃんに聞いてみる!!」 千尋は立ち上がると銭婆にぺこっとお辞儀をした。 「行って来ます!! おばあちゃん‥‥ハクを、ハクを探して‥‥せめて、私が記憶を取り戻すまでは死んじゃだめだって‥伝えて‥‥!」 「そのくらいなら出来そうだね。いいよ、ハク竜のほうは任せなさい」 銭婆の言葉を聞いて少しだけ安心したように頷いて、千尋は走り出した。 湯婆婆の元に向かうために。 千尋の姿を見送って、銭婆は再び姿を消して式神へと戻る。 その式神は窓からでていき――――青い空の向こうへと消えた。 |