神の花嫁
〜Sacrifice〜
その22
うそ。 なんで、私がいるの!? 私は‥‥私はここにいるのに? 「‥‥千尋‥」 いつの間にかよろけて、ハクにもたれかかっていたらしい。 ハクが千尋を支えていた。 「‥‥あそこにいる私は、だれ?」 ハクに聞くつもりでもなく ただ口からそんな言葉がこぼれ出ていた。 「わからない‥‥私が来た時には、もうあの千尋がいた。暫く行方不明になっていたらしいけど‥‥一週間ほど前に何事もなかったかのように戻ってきたそうだよ」 一週間前。 その日数に気がついて、千尋はハクの顔を凝視した。 「私が‥‥生き返った時?」 ハクが頷く。 千尋は知らず知らずのうちにハクの服を握りしめていた。 「‥‥ホントに私、人間じゃなくなったんだ‥‥。人間の私がこうして、ここに存在してるんだもの」 人間の千尋は、たぶんハクのことも、油屋のことも、何も覚えていないのだろう。 そしてこれからもあの世界の事は思い出さずに生きていくのだ。 平凡に学校を卒業して 誰かに恋をして 結婚して子を為し 年老いて死んでいくのだろう。 ”わたし”が帰る場所は、もうここにはない。 「‥‥何処にも、帰る場所はないのね‥‥」 視線を逸らすようにうつむいた千尋の腕は、震えていた。 千尋の心が悲鳴をあげているのはハクにも伝わってきていた。 なのに ハクの目の前にいる千尋は涙一つこぼさない。 それがよけいに辛い。 「‥‥千尋。私の帰る場所は、そなただ」 突然のハクの言葉に千尋が視線を向ける。 「私の故郷ももうここにはない。私が戻りたいのはそなたの元だけ‥‥だから」 ハクは千尋の両肩をつかんで引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。 「私が千尋の故郷になろう。千尋が辛い時も寂しい時も、楽しい時も嬉しい時もいつもそばにいよう」 「ハク‥‥」 「言霊に誓う。いつも千尋とともに有ることを‥‥」 ハクの声が 言葉が 耳をくすぐる 「私のところに戻ればいい。千尋が戻るところは‥‥ここなのだから」 涙がこぼれる。 ずっと ずっと我慢していたものが堰を切ったようにあふれてくる。 「‥‥泣いていいから。我慢しなくていいんだよ‥‥千尋‥‥」 千尋はハクの首に腕を回してしがみついた。 「ハク‥‥ハク‥‥!!」 千尋は大声をあげて泣いた。 それをハクはただじっと抱きしめていた。 たぶん 次に坊と会う時には心から笑えるだろう。 作り物の笑顔ではなく 坊が望んだ笑顔を向ける事が出来るに違いない。 「‥‥ねえ」 油屋へとたどる道筋。 手を繋いで歩いていた千尋がぴた、と止まった。 それにつられて、ハクも歩みを止める。 「さっき‥‥ハクが言ってくれたでしょ? 私が辛い時も寂しい時も、楽しい時も嬉しい時も一緒にいるって‥‥」 「言ったよ?」 千尋は少し、頬を赤らめた。 「それって‥‥結婚式の時の言葉みたいね」 「結婚‥式?」 ハクが不思議そうに問い直すのがおかしくて、千尋はくすくす笑った。 「そこに立って」 千尋はハクから手を離し、ハクに向き直った。 「? なに?」 「いいから立ってて」 千尋はすう‥と息を吸うと、自分の視線よりも高い位置にあるハクの瞳をじっと見つめた。 「私、荻野千尋は、コハクを定められた伴侶とし、全身全霊を尽くし、良き時も悪しき時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、たとえどのような事が起ころうとも、死が二人を分かつまで、命ある限りあなただけを愛する事を誓います」 うろ覚えだったけど、何とか言えた。 そうして‥‥きょとんとしているハクに気がついた。 教会式のものだから、ハクが知らないのも無理はない。 千尋は呆けたままのハクを、ちょっと睨み付けて促した。 「ハクも言うの! 誓いなんだからっ」 「わ、わかった‥‥同じように言えばいいのか?」 「そう」 ハクはコホン、と咳払いしてから、さっきの千尋の言葉を繰り返した。 「私、和速水琥珀主は、荻野千尋を定められた伴侶とし、全身全霊を尽くし、良き時も悪しき時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、たとえどのような事が起ころうとも、そなただけを愛する事を誓う」 その言葉の中に抜けている言葉があるのに気がついて、千尋はハクを見上げた。 「ハク‥‥言葉が抜けてる」 「死が二人を分かつまで?」 「そう」 ハクはそっと千尋を抱き寄せた。 「死も私たちを離す事は出来ないよ。私たちはずっと一緒なのだから」 私たちの魂は混じり合い、一つのものとなっているのだから。 千尋は頬を赤らめて、コクンと小さく頷いた。 「この後は、どうするの?」 「その後は、誓いの口づけ‥‥んっ‥‥」 千尋の答えが終わる前に、ハクは千尋の唇に自らのそれを重ねていた。 たった二人だけの式。 立ち会う人も見守る人も誰もいないけど でも ―――――お父さん、お母さん ―――――私、お嫁さんになったよ‥‥一番大好きな人の、花嫁に。 ハクの口づけを受けながら 千尋は涙を止められなかった。 |