Sherman
その5
200000キリ番作品
菊理は見たところまだ若い女性だった。 だがその気配はヒトのものではない。 神だけが発するその神々しい気配に、ハクは呑み込まれまいとするので精一杯だった。 千尋は―――と視線で探す。 「そなたがやって来た理由は、この娘御でありましょう?」 菊理が視線を向けたその向こうには――――光で出来た魔法陣に包まれて、身体を横にして眠る千尋の姿。 「千尋!!」 思わず駆け寄ろうとしたハクを留めたのは、千尋の存在を示した菊理その人だった。 「……千尋を返して頂きたいのです。あの娘はまだ必要な存在ですので」 「それは困ります。あの娘は妾にとっても必要な娘ですから」 そう告げる菊理の表情からは何も読みとれない。 喜びも焦りも苛立ちも、何も。 「……この身体も、もう限界が来ておりますから」 「……なんですって?」 身体に、限界が? ハクが念を押すように訊ねると、菊理は頷いた。 相変わらずその表情には何も感情を浮かべずに。 「………妾の魂は、一度も眠りについた事がありません。身体が朽ちれば次の身体へ……と。もうこの身体に宿ってからも既に100年近くが立ちます……次の身体を、見繕わねば」 「……………」 思いもよらなかった事に、ハクは言葉もない。 「……妾は神ではありますが、身体は神ではない。身体は人間のものなのです……なのに、妾の魂は人間に宿ると時を止めてしまう。そうして、ゆっくりと力によって消耗してゆくのです。太古の昔から……そう。ナギとナミの二人をこの場で治めた、あの時よりもずっと昔から妾はそうして生きてきました。妾は永遠にここで、生と死を見つめてゆくのです。その為に、この娘御の身体が必要なのですよ」 まるで他人のように語る菊理の言葉は、何処かお伽噺を聞いているような話にしか聞こえない。 だが現実に、千尋はあの場所で今にも身体を取られそうになっている。 「……どうして、千尋が……」 「あの娘御には天性のものがあります。神と通ずる何かを。それがあれば、妾の魂も身体になじみやすい」 それはきっと、あの湯屋で神や異形のものとすぐにうち解けた、千尋がもつ天性の性質みたいなものの事だろう。 そのおかげで千尋は湯屋で受け入れられ、こうしてハクとも共にいられるのだ。 だが。 「……そんな事は、させません…!」 瞬間、ハクの周りに風が舞い起こった。 それまでもずっと抱いて来たであろう感情を、ここに来て隠す事をやめたハクの周りには、怒りと……そして不安の感情が渦巻いている。 ――――昔、感じた事がありましたね。 菊理はそんな事を思いつつ、口を開いた。 「腕づくでも止めると申すのですか? たかだか河の神の立場で?」 「何もかも劣っている事は承知の上です」 それでも。 「それでも妾に立ち向かうというのですか」 「そうです」 「あの娘御の為にですか」 「はい」 ハクの瞳が菊理をじっと見据えている。 その瞳の強さは決して神はもたないもの―――そう菊理は感じていた。 「そなたは……神でありながら、神にはない強さを秘めていますね。それも、あの娘御の所為でしょうか」 「そう……かもしれません。何があっても諦めない……その強さを、私は千尋から学びました」 永遠に近い時間を有する神であればこそ、有限の時を生きる人間が持つ強さに憧れる。 限られているからこそ、そのなかでよりよい結果をつかみ取ろうとする人間の欲望が、強さを生み出す。 それは決して神にはないものである。 確かに目の前にいる青年――――ハクは、自分から見れば取るに足らない下級神である。 だが永い時を生きてきて何も変わっていない自分と、たかだか1、200年ほどしか生きていないであろう青年とのこの違いは何だろう? 「……妾は自分の役割ゆえに、接触は最低限にしてきました。人とも神とも出来るだけ関わらず、この場所でこうして独り、ずっと見守って来たのです。おそらくそなたもそうして来た筈。出来るだけ人とは関わらない。それが神の戒めであった筈………」 その疑問を問いかけても、ハクの表情は変わらなかった。 「私はその戒めを破り、あの少女がまだ幼かった頃、おぼれかけていたあの娘を助けました。どうしてかは分かりませんが……あの娘は助けなければと思ったのです」 「……人と関われば哀しみ、苦しみを知ります。そなたはまだ若い……その苦しみを知っても、良かったと思えるのですか?」 人の生死を太古の昔から見つめてきた菊理。 神からも人からも遠ざかり、ただその営みを見つめてきた彼女だからこその言葉である。 しかしハクはそれでも、頷いた。 「千尋が死ぬ時には辛いと思います。苦しくて……気が狂うかもしれません。それでも、出会えて良かった」 自分の名を取り戻してくれただけでなく、自分の心も救ってくれた少女。 その少女を守る事だけが――――今の自分のやるべきこと。 ハクの言葉を、菊理はただじっと聞いていた。 長い沈黙の後。 ふう……と菊理が息をついた。 「連れて帰りなさい」 菊理のその言葉とともに、千尋を包んでいた光の魔法陣が消え去る。 「そなたのやるべき事を取り上げる訳にもいかないでしょう。……早く戻りなさい。ここは亡者も来るところ……生者の気配をかぎ取っていつここまで来るかわかりませんよ」 ハクは千尋に近づくと、その華奢な身体をそっと抱き上げた。 「分かりました」 そのまま元来た道の方へと歩き出す―――――と。 ハクがぴたりと足を止めた。 振り返らずに、神の名を呼ぶ。 「………菊理姫様」 「なんですか」 「…………………」 言葉にするには、菊理にとってはあまりにも時が流れすぎている。 ハクは口にしようとした言葉を呑み込んだ。 「………いえ。失礼します」 今度は歩みを止めずに去っていくハクを見送り――――菊理はもう一度息をついた。 「……あれは良い器であったのに。もう一度器を探さねばなりませんね………」 そうやって自分はずっと生きてきた。 これからも、ずっと。 生と死がこの世にある限り―――――――。 |